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Argonauta 3: 3-7 (2000)


「雑誌のreviewerはどうあるべきか」を読んで


沼田英治


 学術雑誌に投稿された論文を校閲する側がどうあるべきかということについて、本誌第2号の大垣による論文(以下、大垣論文)に対して、以下に私見を述べたい。私自身は、昆虫を中心とする陸生無脊椎動物の生理学に携わってきており、これから述べる内容はとくに海洋生物に関連するものではないことを、まずお断りする。本誌第1号と第2号に掲載された、大垣による数々の力作に関しては、地面に掘った穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んでいるのではないかという疑問も感じたが、すこし違う立場の者が意見を述べておくことも有益と考え、あえて同じ穴に参加することにした。

 私は大学院のある大学に所属しているため、個人で研究をしている人たちに比べると、大学院生と共著のものなど論文原稿を投稿する回数も、また論文校閲を依頼される回数も多いと思われる。そこで、それらの経験に基づいて意見を述べたい。その際に、大垣論文が問題とした「校閲する側がどうあるべきか」という点だけではなく、「投稿する側がどう対処すればよいのか」という点にも注意を払った。私自身が論文を投稿した実例を5件、知人から伝え聞いた例を1件具体的に示す。私が校閲にあたった例も参考にしているが、守秘義務違反となる恐れから、投稿した場合の例のように具体的には示さない。

1. 編集者と校閲者の役割分担

 一般論としては、大垣論文にあるように最終的に学術雑誌に掲載するかどうかの決定権は、編集者が持っていると考えるのが正しい。事実、海外の雑誌に投稿した際にはこのことを実感することも多い。

例1) 海外の雑誌に投稿した時、一人の校閲者が好意的コメントを寄せながら、もう一方が決定的に低い評価を下したらしい。この場合には、担当編集者が、自分でていねいに原稿を読み、最終的には好意的なコメントを下した校閲者が正しいと判断して、掲載が許可された。この場合、もう一人の校閲者の意見は、結局送られてこなかったが、誹謗中傷に近い内容であったらしい。この論文の内容は編集者の専門に近かったわけではないので、編集者はたいへんな苦労をしたと思われる。事実、このケースでは編集者からの掲載決定の連絡はたいへん遅れた。

例2) これも海外の雑誌に投稿した時、一人の校閲者は全体に対する好意的な意見と一部に対する修正要求をしたが、もう一方の校閲者は、当時、私のところでは不可能であった方法を用いて新たな測定を行わない限り掲載を認められないという意見であった。この二つのレポートには、担当編集者からの手紙がついており、それには「最初の校閲者の意見を参考に修正して送り返すように」と書かれてあった。それにしたがって改訂して、掲載が許可された。これも、編集者が積極的に自身の判断を加えたケースである。

例3) 少し分野の違う海外の雑誌に投稿した時に、まったく校閲に回されずに、編集者の判断で掲載不可となった。

 一方、日本の雑誌では、編集者が校閲者の意見に反する判断をすることはほとんどないように感じる。

例4) 知人が、日本の雑誌に投稿した場合に、校閲者が決定的に低い評価を下し、それに対して著者が反論を試みた。しかし、編集者が著者に返した返事は、「この分野で高い評価を受けている校閲者がだめだという以上、どうしようもない」という内容であったと聞く。この知人は、「自分の反論を論理的に否定されたのならともかく、権威を持ち出されたのでは納得できない」と憤懣やるかたない様子であった。

 例1と例2が専門的雑誌であったのに対し、例4は幅広い分野を包含する雑誌であるので、簡単に一般化することには問題があるかもしれないが、これ以外の経験を加えて考えても、海外の雑誌の方が編集者の権限が大きいという印象は否めない。

 私自身が校閲する場合にも、その雑誌の分野やレベルに合致しているかどうか判断することはたいへん難しい。たとえば、少し前までは方法や論理展開に誤りがなければとくに難しいことを言わずに掲載していた雑誌が、ある時点から「国際誌」を標榜してレベルを上げようとしている場合に校閲を依頼されたとする。その原稿には大きな問題はないものの、国際性というには結果の新奇性が乏しいというような場合、原稿の採否を校閲者が判断することはきわめて困難である。

 したがって、その雑誌の分野やレベルに合致しているかどうかの判断は、校閲者ではなくて編集者の側にあるべきであるが、実際には、2人の校閲者が低い評価を下した時に編集者がこれを掲載することはできないだろうし、逆に2人の校閲者が好意的意見を寄せた時に、編集者がこれを掲載不可とすることも難しいだろう。基本的には、校閲者は無償のボランティアであるので、編集者が校閲者の意見を軽視あるいは無視するような行動をとると、やがて引き受ける人がなくなる。すなわち、編集者と校閲者の力関係を反映する結果、とりわけ日本の雑誌では校閲者の意見が重視されているのであろう。例4の編集者の対応は、もちろん私もよくないとは思うが、編集者の側の苦悩も伝わってくる気がする。

 実際上、編集者の判断が決定的となってくる場合は以下の3点であろう。

 まず、校閲に回すかどうか、また校閲者を誰にするかという判断である。これに対する投稿する側の対策としては、その論文の内容を理解できる編集者のいる雑誌を選ぶことが重要であるし、複数の編集者の中から投稿先を選択できる時には、この選択を誤らないことも重要である。実際、編集者は、原稿の絶対数が足りない時には、ほとんど掲載不可としない校閲者、また、急いでいる時には返事の早い校閲者を選ぶというような判断をしていると聞く。校閲者の候補を提案できる雑誌では、これをうまく活用するのもポイントの一つであろう。

 次に、2人の校閲者が正反対の結論を出した時の判断である。これまで私の経験した多くの場合には、編集者はより好意的な校閲者の意見を尊重した、すなわち私に対して好意的な行動をとったが、一度だけ、海外の雑誌でより厳しい校閲者の意見が採用された。これは、多くの編集者、とりわけ国内の雑誌の編集者は多くの論文を集めたいということを反映していると思われる。

 最後に、校閲者の修正要求をどのくらい満たしたら掲載が許可されるか、この段階では編集者の意見が決定的な役割を果たすように思う。少なくとも、校閲者のレポートとともに編集者自身のコメントが送られてきた場合、それに従わないと掲載されないと考えるべきであろう。

2. 期限

 基本的に大垣論文に賛成である。

 1999年の1月から2000年の4月までに、私のところに国内の3学会の雑誌から14、外国の雑誌から3の校閲依頼が来ており、このうち外国雑誌の1をのぞいてすべて引き受けた。16ヶ月で計16の原稿ということで、単純計算では一ヶ月に1という計算になるが、多くの場合に複数回校閲することになるので・・・どのくらいの頻度で原稿が送られてくるかは、想像できるだろう。なお、引き受けなかった一つに関しては、私が現在その分野の研究をしておらず、そのため最近の進展を把握していないので、別の日本人校閲者を紹介した。

 このような状態であるので、大垣論文の「期限遵守」という提言に賛成すると自分の首をしめることにもなりかねないが、私は校閲者の速度はきわめて重要という認識をしている。とりわけ、日本の雑誌が掲載論文のレベルを高く保つには、日本人によい論文を送ってもらうことしかない。そのために、「海外の雑誌に比べて速い」という利点は重要なセールスポイントと思う。学位や就職が関係してくる時、早く掲載決定されるということが決定的に重要である。最近ではもっと若い大学院生の場合にも、日本学術振興会のDC特別研究員への応募があり、掲載決定を急ぐ場合が多い。したがって、一般論としてももちろん校閲者は期限を守るべきであるが、私は、日本の雑誌にドクターコースの院生が第一著者で投稿してきた場合には、特急で校閲することを心がけている。

例5) ある海外の雑誌に、校閲者の意見を参考に修正した原稿を送ったにもかかわらず、半年以上も連絡がなかった。編集者に督促の手紙を出すと、程なくして掲載決定の連絡が来た。おそらく、編集者または秘書の机の上に原稿が眠っていたのであろう。

 したがって、投稿した側は編集者の返事が遅い場合には督促をしてよいと思われる。しかし、次のようなケースもあったので注意しなければならない。

例6) ある海外の雑誌に投稿したが、半年以上も連絡がなかった。編集者に督促の手紙を出すと、編集者の返事は「まだ、一人の校閲者の返事しか返ってきていない。もう一人には督促したにもかかわらずまだ返事が来ない。どうしても急ぐようなら一人の校閲者の意見のみに基づいて採否を判断するが、私としてはもう一人の校閲者の返事を待ちたい」というものであった。私は、もう少し待つという判断をした。後でわかったことだが、早い方の校閲者は「別の雑誌に送れ」という事実上の掲載不可の返事であり、遅い方の校閲者と編集者の好意的意見に基づいて、この論文は掲載された。

3. 校閲者と著者の責任

 校閲者がどこまで面倒をみなければならないかということに関しては、難しい問題である。論文の採否の責任は編集者に、発表された論文の内容に関する責任は著者にあるはずで、その意味では校閲者は単に評価するだけでよいはずである。しかし、日本の雑誌の校閲においては、必ずしもそう単純ではない。論文発表の経験の多い人たちだけが投稿するわけではない。大学院生が初めて論文を投稿する場合もあるし、大学以外で英文による論文作成が日常的でないところからの投稿もある。内容的にはおもしろい部分があるが、論文の体をなしていないという原稿の場合、海外の雑誌なら掲載不可とすればすむことだろう。しかし、こういった研究をまともな英文論文にしあげて、日の目を見させるのも日本の雑誌の任務である。したがって、私が校閲者になった場合には、できる限り掲載不可とせずに、何度かのやりとりの末に掲載できるレベルに達するように努力している。検定のやり方や引用文献を助言することは珍しくない。しかしながら、このような論文の校閲にあたると、事実上論文指導を肩代わりすることにもなりかねず、時間とエネルギーは計り知れない。

 一方、正しい実験方法で適切な統計処理をしているが、結果は既にわかっていることであるという原稿や、おもしろい内容の息吹は感じられるが統計的に有意でないといった原稿の処理はたいへん難しい。論文の内容に関する責任は著者にあるという点からは、これらの論文は掲載してもよいことになるかもしれないが、果たしてそれでよいのだろうか。

 前述のように、私は校閲者としては、掲載不可という判断を下す頻度の高い方ではないと認識している。それでも、掲載不可とする条件に関する大垣論文の考え方は、過去の経験に基づいた(?)感情的なものという印象をもつ。誰でも掲載不可とされたら腹が立つものだ。しかし、校閲者に対してあまりにも厳しい条件を突きつけるならば、それこそ誰も校閲をしなくなるだろう。幸いなことに、同じような内容の雑誌がたくさんある時代であるから、校閲者が間違った判断で掲載不可としても「その論文を永久に葬ること」にはならないのがふつうである。その意味で刑事事件の裁判のように、「無実のものを罰することは決してあってはならない」と考えることはできない。ただし、「誰が見ても納得できるように」できるかどうかは別として、できる限り客観的かつ明快に掲載不可の理由を著者に説明して、理解を求めるべきことは当然である。私も、校閲者のレポートの中に感情を害するような言葉をみつけて、いやな思いをしたことが何度もある。これは掲載不可とされた場合に限らない。こういったことは、校閲者としては避けなければならない。

 校閲者は、優れた論文に関しては、「一回目から何も言わないのは校閲者としての資質を疑われる」などと考えず、そのまま掲載することに賛成するべきという点に関しては、大垣論文に賛成である。私自身、校閲者としてそうしたこともあるし、ごくまれに改訂なしに掲載決定されたこともある。

4. 記名と匿名

 私は、かつて大垣論文と同様、もっと校閲者の名前を公表してよいのではないかという考えであった。しかし、今は少し消極的になっている。これまでに校閲者として匿名で行った著者とのやりとりから考えて、「逆恨みするのは一部の未熟な著者のみ」とはとても考えられない。また、私が著者として投稿した場合に、校閲者が理不尽な意見を述べたことも少なくはない。極端な言い方をすると、「論理的に破れてもそれを決して認めないような強い性格の人だけが研究者として生き残っている」という印象さえもある。現状の「原則は匿名であるが、校閲者自身が記名する場合にはそれを妨げず」というのがよいと思う。

5. 謝辞

 謝辞は信じてはならないというのには賛成である。謝辞に英米人が入っていても、どの程度責任を持って英文を校閲したのかはわからないし、その分野の権威の名前が入っていても、著者でない限り内容に責任をもてないことは言うまでもない。実際、謝辞に名前を入れる場合、どういう形で入れるのかも含め本人の了承を得ることは当然と思われるが、この基本を守っていない著者がいることは明白である。それどころか、英米人やその分野の権威が著者に入っていても、それが校閲に影響してはならない。

6. 若手研究者の校閲

 大垣論文の「若手研究者に校閲を任せるのは望ましくない」という意見には賛成できない。どこまでが若手かという基準にもよるだろうが、私は、複数の英文原著論文を発表した経験がある、あるいは博士の学位を取得済みの研究者なら誰でも論文校閲を経験するべきだと思う。「若いから軽い気持ちで行動し、年長者は客観的に正しい判断をできる」と上記論文の著者が考えているということは、意外である。

 私は、一昨年度からある日本の学会誌の編集委員をしており、校閲者を選択する作業にも携わっている。その経験からいうと、若手研究者がいいかげんな校閲をしたとは思えない。もちろん、私なりに適切と思われる人を選んでいるからであろうが、今後ともできる限り若手を登用してゆきたい。本人にとっても勉強になる。また、必ずしも校閲の回数が極端に多いとは思えない私の回数が前述のとおりであるから、一部の研究者に校閲が集中することは、その人たちの負担を重くするばかりではなく、個別の校閲の正確さを失わせることにもつながりかねない。あるとき、海外の有名雑誌から私のところの大学院生に校閲依頼が来たことがあった。どこの編集者も手持ちの校閲者のリストに新たなメンバーを加えたいと考えているに違いない。


「雑誌のreviewerはどうあるべきか」大垣俊一 Argonauta 2:15-20.

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