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Argonauta 2: 12-20


雑誌のreviewerはどうあるべきか


大垣俊一

 研究者が論文を書いて学術雑誌に投稿すると、受け取った編集者(editor)はそれを、refereeないしreviewerと呼ばれる、その分野の専門家に送る。そしてある期間たってから、著者(author)は通常匿名のreviewerのコメントと、それに基づくeditorの意見を受け取ることになる。

 このreviewerのコメントが、しばしば不当、不愉快、ときに理不尽でさえあるという不満を、私はこれまでしばしば耳にしてきた。通常、著者は自分の研究に対して強い思い入れを持つものなので、批判に対して敏感であることは当然で、そのことが、正しい指摘に対しても感情的な反応を引き起こす傾向はないわけではない。また、文章にすると、言葉で言うよりもきつい印象を与えがちなので、そのことも批判の受け止め方に影響を与える一つの要因になっていると思われる。しかしそういうことを差し引いても、あるいは第三者として見ても、これは少しひどいという事例はあるし、しかもごくまれと言うには少々多すぎるのではないかという印象を、私は抱いてきた。

 こうした不満は、少人数の酒の席など、ざっくばらんな雰囲気のもとでは出てくることがあるが、公の場ではまず聞かれないし、不当と思われるコメントに対してreviewerに抗議してやり合ったという話もあまり聞かない。著者の側には、相手の印象を悪くすると評価結果に差し障るのではないかという懸念があるだろうし、抗議しようにもほとんどが匿名なのでそのすべがない。少々腹が立っても争うのが面倒くさく、ここは適当にやり過ごしてとにかく論文を載せてしまおうという気になりがちだ。

 立場を変えてこれをreviewerの側から見ると、どのようにコメントをつけるべきかについての指針が乏しく、多かれ少なかれ手探りで行わざるを得ないという現状がある。大まかなことは同僚などに聞くことができるが、内容に踏み込むような話は差し控えるのがマナーである。そこでますます自らの殻に閉じこもり、それまで自分が受けたコメントの内容などを思い返しながら、見よう見まね、手探りでコメントを付け続けることになる。ひどいコメントをつけられてそれがあたりまえと思いこみ、自分もその調子でやって理不尽の再生産をしてしまう、と、これは特にreviewingの経験の浅い若手研究者の場合にありがちなことかもしれない。

 reviewerがどうあるべきかということは、学術論文の採否や雑誌の質にかかわる、極めて重要な問題である。しかしこのことが、こうした理由によって公に議論されないままなのは好ましいことではない。こうした状況に一石を投ずるため、1998年3月のArgonauta例会において、大垣俊一・岩崎敬二の両者により、「雑誌のrefereeはどうあるべきか‐実例による検討」という話題提供を行った。ここではその時の前者の発表内容と議論をふまえ、reviewerのあり方をめぐって問題提起を行いたい。なお、学術論文の評価を行う研究者のことを、refereeあるいはreviewerと呼び、辞書等によればそのどちらの用法も適切とされる。日本語では査読者と言うことがあるが、戦前の思想検閲のような強圧的な響きがあって、私は好きではない。校閲者というのは比較的穏健な表現で、日本語で言わなければならないとすればこれを選びたいが、字句修正程度の作業でも用いるようである。研究に国境はないので、英語でかまわないだろう。ただその場合、refereeという言葉には、reviewerと違って、スポーツの「審判」のように勝敗の判定権限を持つ用法があり、このニュアンスに馴染んだ日本人の場合は、誤解とそれに伴うトラブルを避ける意味で、reviewerの語を用いるのが妥当と考える。言うまでもなく、論文の採否を最終的に決定するのはeditorであって 'referee' ではない。

reviewingについてのマニュアル

 reviewの行い方について指針が乏しいと書いたが、全くないことはない。アメリカCBE (Council of Biological Editors)の 'Style Manual'(日本語版「生命科学論文まとめ方のコツ」共同医書、以下Style Manualと略称)はその一つである。この本は、幅広く科学論文発表をめぐる指針を述べたもので、いろいろな意味で参考になるが、その中に、分量は多くないながらreviewingの方針についてもふれた部分がある(第4章「編集者による原稿の校閲‐校閲者にとっての良い習慣」)。以下その部分の要点を抜粋して示す。

 まず、reviewerの基本的な位置づけについて、次の記述がある。

「校閲者(=reviewer)の貴重な尽力のおかげで、編集者や編集委員会は雑誌を高いレベルに保つことができる。校閲者は、論文を受理することの是非に関して意見を述べるばかりでなく、事実や解釈の誤りを指摘し、不正確な叙述やあいまいな叙述を注意し、もっと詳しく述べたり、あるいは要約した方がよいという箇所を教え、また、いかにして表現を強調し、かつ明瞭な文体にするかということも指導してくれる。」

 さらに‘校閲者にとっての良い習慣’の項では、

「論文は迅速に読み、かつ評価して編集者のもとに返送しなければならない。もし締め切りに間に合わないなら、その旨を編集者に知らせなければならない。」
「注意深く読め。著者はよく、校閲者の批評には、いいかげんに読んでいる点が良くわかると文句を言う。原稿を評価し、批評を書くときには、客観的にならなければならない。また、あまりしんらつにならないようにせよ。」
「現在の主流の考えが絶対に正しいと考えてはならない。さもないと重要な論文を、結論が現在の主流派の考えと違っているという理由で没にしてしまうということもあり得る。」
「論文の科学的価値ばかりでなく、その雑誌の読者層に適しているか、また発表内容の質はどうかといったこともよく考えよ。」
「助言は具体的でなければならない。極端に長い論文を書いた著者に‘この論文は長すぎる。半分に要約せよ’と言うだけでは何の助けにもならない。あまり重要でない部分の省略や、他の部分の要約に際しては、はっきりとした具体的な指示を与えよ。文法的、修辞学的な誤りも指摘せよ。くどい文章や、はっきりしない文章に注意をひきつけよ。」
「原稿の内容は著者の財産であり、原稿は親展扱いにしなければならない。同僚の意見を聞くことが許された場合以外には、編集者以外の人と原稿について議論してはいけない。」

 私自身は、このマニュアルに必ずしも同意できない部分もある。たとえば4番目の、読者層に合っているかうんぬんは、雑誌に向いているかどうかを考えるのは、基本的にreviewerではなくeditorであろう。また上に挙げた以外にも、この本では原稿のページに直接訂正や批評を書きこんではならないとしているが、そうした方がわかりやすいこともあるし、現実にもよく行われてそれで不都合を感じたこともない。しかしこの本の記述は参考になることを多く含んでいるので、reviewを引き受けたらこうしたマニュアルをよく検討し、また折に触れて読み返すことが必要と思う。

期限

 reviewingの期限については、通常editorから依頼された時に示されるので、それを守らなければならない。しかし案外守られていない。私の経験した事例で、次のようなことがあった。ある雑誌に論文を投稿後、受付(いわゆるreceived)の通知はすぐに来たが、その後3ヶ月しても連絡がない。近年の海外の学術誌では、1-2ヶ月で返ってくるのが通例である。その時点でeditor宛、問い合わせの手紙を出した。返事が来て、「査読者には1ヶ月程度の期限で依頼したが、なお査読中と思われる。今から問い合わせしたい。」ということだった。しかしその後2ヶ月しても連絡がないので、再び(投稿5ヶ月後)今度はかなり強い調子で、編集者に対して進行状況を詳しく知らせてくれるよう要請した。同時に、reviewerに文書を取り次いでもらいたいと申し入れた。もちろん、直接本人に抗議するつもりである。これに対してeditorからの返答は、(1)2名のうち1名のreviewerからまだ返って来ていない。(2)先に行なった問い合わせには返答がなかった。(3)さらに働きかけを行い、うまく行かなければ編集委員会として対応、といったものだった。比較的誠意ある内容だったが、中に「レフリーはボランティアとしてやっていただいているので、多少の時間的猶予を…」、またeditorの個人的意見として「文書を取り次ぐと、査読結果に悪い影響を与えかねない」とあるのがひっかかった。結局この論文は編集委員会内で処理されたようである。つまり問題のreviewerはeditorからの2度の問い合わせにもかかわらず論文を読まなかったことになる。これ以外にも、私はコメントが返ってくるまで7ヶ月というのを経験しているし、半年以上かかったという例をいくつか聞いている。中には時間がかかったことを謝罪するどころか、「内容が良くなかったのが遅れた原因」と、著者に責任をなすりつけて開き直る例もあるというから驚く。

 もとよりreviewerが論文を読む期限について、絶対的に妥当な時間幅があるわけではない。しかし業績の発表過程も一種の競争であるから、投稿者の側からすると、昨今の状況のもとで、初回の返却まで半年も1年もかかる雑誌には投稿したくない。また競争うんぬんを別にしても、遅れたために実際にauthorにかかる迷惑というのもある。これはreviewerのことではないが、私がある雑誌に論文を投稿したところ、editorの処理が悪く、1年半もの間pendingのままであった。くり返し催促したが進展しないのでついに取り下げたが、この間、引用すべき研究が新たに発表されたり、新しいリストや図鑑が出て、内容を変更せざるをえなくなった。editorにしろreviewerにしろ、同じ研究者であればこうした事態が起こることは予想できるはずである。editorはreviewerに対し期間を指定し、読めない場合にはあらかじめ通知するように求めるので、無理と見れば断る自由もある。読めないのならば、初めから引き受けないことである。

 特別な場合を除けば、コメントを遅らせるreviewerに悪意があるわけではないだろう。特に年配で立場のある研究者ともなると、指導する学生、院生の論文や出版者からの依頼原稿が山積みになっており、reviewを依頼された論文も、その山の中にうずもれているのかもしれない。学生や出版社は弱い立場なので強くは言えないだろうし、それらの人々からたびたび控えめに催促されてようやく、というパターンが定着し、遅れるのがあたりまえという感覚になる、などありそうなことである。また、期限の問題から少し離れるが、立場のある年配研究者の中には、コメントを依頼された原稿をeditorに無断で、指導する大学院生に渡して読ませ、コメントを書かせるような例もあると聞いている。院生にreviewingの練習をさせることと自分の時間節約の「一石二鳥」というわけだろうが、ひどいものである。これは編集者の意図に反するばかりか、Style Manualにある、原稿の親展性というマナーにも外れている。

 期限を守らないreviewerに対し、reviewerはボランティアであるとか、機嫌をそこねると結果が悪くなるというような、editorからreviewerへの遠慮は無用と言わねばならない。いいかげんなreviewerをかかえこんでいれば、やがてauthorから雑誌がそっぽを向かれるだろう。

author, editor, reviewer

 論文投稿をめぐるauthor‐editor‐reviewerのトライアングルの中で、一般にauthorは後二者に対して弱い立場にあるかのように考えられる傾向がある。著者は苦労して行った研究成果を世に出したいという気持ちが強いから、採否の決定権を持つeditorや、その判断に影響を与えるreviewerに対し、「論文をのせてもらう」という意識になりがちだ。一方editorは、雑誌の編集を円滑に行うために多くのreviewerと良好な関係を維持しなければならず、reviewerに対して強く物が言えないという傾向も見え隠れする。三者のうち一番立場が自由なのはreviewerで、コメントを依頼されても断ることができるし、匿名にしておけば何を書いても責任を問われることはない。いわば歯止めがかかりにくいわけで、ここのところに問題がある。

 やや細部にわたるが、たとえば文体の問題がある。authorとeditorのやりとりは、日本語であればふつうの手紙文の形式にのっとり、互いに「です、ます」の敬体を使う。しかしauthorとreviewerの間では、authorはreviewerのコメントに敬体で答えるであろうが、reviewerからauthorへのコメントだけが、なぜかしばしば「だ、である」の常体になっている。文体だけなら単に簡潔を期したと考えられなくもないが、それ以上に、高圧的、命令的な用語を好んで用いるreviewerがいる。私はauthorとreviewerの関係は対等だと思っているので、reviewerが常体を用いればこちらも常体で答え、高圧的、命令的ならばこちらもreviewerの指摘のまちがいを、高圧的、命令的に批判することにしている。我々が通常、特に親しいわけでもない研究者と個人的にやり取りする場合、いきなり常体や命令口調を使うことがあるだろうか。authorとreviewerの関係もそれと同じである。そうしないのはreviewerの側に、自分に何らかの特別な権限があって、authorより上の立場にあるという誤解があるからだと思われる。

 author、editor、reviewerの関係は、研究者として互いに対等である。現実にも、もしauthorが、editorやreviewerを含め、雑誌の対応がよくないと判断すれば、いつでも理由を示して原稿を取り下げることができる。editorからreviewerに対する遠慮は、制度上わからないこともないが、言うべきことを言わないとreviewerの好ましくない姿勢を放置することになる。reviewerは誰に遠慮をする立場でもないがゆえに、常に自らの姿勢を反省し、reviewingはどうあるべきか考えていないと、知らず知らずまちがいをおかすだろう。コメントを求められた時にできる限り協力することは、自分が論文を投稿した時に誰かに読んでもらうことを思えば、当然のことである。

reviewerの領分

 reviewを引き受けた場合、原稿の内容や学術的価値について意見を述べることは比較的たやすい。しかしそれ以外に、reviewerはその論文の、雑誌への掲載可能性についての判断を求められる。Style Manualには、「校閲者(reviewer)は論文を受理することの是非に意見を述べる」「論文の科学的価値ばかりでなく、その雑誌の読者層に適しているかもよく考えよ」とある。雑誌によって体裁は異なるが、普通「このまま掲載してよい」から「掲載不可(reject)」まで、何段階か項目があげられており、そのどこかにチェックを入れるという形をとる。しかし読者層と言っても、それは時とともに変わりうるものである。ある雑誌を、しばらく間をおいてめくってみたら雰囲気が変わっていたということはしばしばある。雑誌の、いわゆる「レベルの高さ」というのは何のことなのかよくわからないが、それを仮に掲載論文の論証精度の高さや示された知見の科学的重要性と読み替えても、どの程度のものをその雑誌が求めているかの判断はおいそれとはできない。私が聞いている例で、ある人が雑誌に論文を投稿したところ、一人のreviewerが「この論文はA誌ではとても無理だし、B誌でもどうなるかわからない。しかしC誌(が、投稿先)だからなんとか載せてもよいだろう」というコメントをつけた。このような判断はこのreviewerの独断でしかなく、A、B誌を上に置くような書き方は、C誌に対して失礼であろう。仮に「レベルの差」があったとしても、C誌にしてみれば、A、B誌に負けないそれを目指しているかもしれない。

 雑誌の表紙裏などにある 'Instructions to authors' には雑誌の方針や扱う分野が書かれているので、それにのっとって判断することはできるが、大ざっぱすぎてreviewerにとって実際の役には立たない。それ以上の微妙な判断は、雑誌のバックにある学会や出版社と連絡のあるeditorやeditorial board(編集委員会)の守備範囲と思われる。ただ、幅広い分野を扱う雑誌であれば特に、editorがその論文の専門分野における価値を判定するのが難しくなり、reviewerの意見も参考にしたいということになるのだろう。その程度のことであればある意味で気楽にできるが、雑誌によってはreviewerのうち一人でもrejectの判断を示せば掲載しないという方針のものもあると聞いている。そういうことはやめてもらいたいものだ。reviewerの立場からすると、わからないことを無理やり判断させられるのは憂鬱である。

記名と匿名

 reviewingは匿名で行うのが常識のようになっているが、必ずそうと決まっているわけではない。Style Manualにも、「編集者は校閲者(reviewer)の実名を論文の著者に知らせる場合も、知らせない場合もある」とある。例は多くないが、私も記名のコメントを受けたことはあるし、それは外国人の場合も、日本人の場合もあった。reviewを依頼されたら、必ず記名にするという人もいるようだ。私は、書いた内容に責任を持つという点から、記名が基本と考える。reviewを遅らせて著者や編集者に迷惑をかけたり、非常識なコメントをつけた場合、reviewer本人がそれなりの責任を負うべきことは当然である。匿名が通例になっていると、そうした悪い習慣を温存する。事実、半年以上原稿を放置するようなreviewerは必ず匿名であり、しかもコメントの内容に誠意がないことが多い。また匿名性というのは一種の麻薬であって、客観的評価を離れた嫉妬、プライド、軽蔑、攻撃性など、人間性の暗い面を助長しやすいということも、残念ながら認めざるをえない。

 匿名が一般的なのは、特に顔見知りの場合、遠慮が生じて率直な意見を述べにくくなるという懸念があるのだと思われる。特に掲載不可(reject)の判定などを記名で行えば、感情的対立が生まれかねないという恐れであろう。しかし誠意を持って読み、意見を述べれば、たとえrejectであっても理解は得られるはずだ。それでも逆恨みするauthorがいたとすればその人物が人間的に未熟ということであって、気にする必要はない。

 もしもほとんどすべてのreviewerのコメントが妥当なものであれば、匿名記名は問題ではない。しかし残念ながら、すでに見てきたごとく現状は必ずしもそうなっていないので、記名によって身を引きしめ、自分が書いた内容を反省する機会にするという意味からも、当面はもっと記名のコメントが多くてよいと私は感じている。

英語

 日本人が英語の論文を書いた場合、投稿前に英米人に英語を直してもらえることもあるが、難しいこともある。私の場合、しかるべき英米人に頼めない時は、日本人研究者が読んだついでに指摘してくれたところくらいを参考にして修正して投稿する。この場合、投稿先が‘日本の英文誌’であると、必ずといってよいほど「英語が悪いので、あらかじめ英米人に読んでもらうように」というコメントがつく。しかし英米人に読んでもらってAcknowledgmentsにその名を挙げているときにはこうしたコメントはつかない。一方、こういうこともある。海外誌に投稿してrejectだったが、reviewerが、なまじ事前に誰かに頼んた時よりも親切に手を入れてくれた。修正して再度、日本の英文誌に投稿したが、もちろんその経緯をAcknowledgmentsに書くことはない。すると、これにはやはり「英語がよくない」というコメントがつくのである。

 私の論文に対して「英語がよくない」と指摘するreviewerは、一応その例を指摘する。しかしそれは英語というより論理の組み立ての問題であったり、reviewer自身の英語力の不足によって意味を取り違えているということも少なくない。その原因を著者に帰して書き直しを要求し、これを根拠として英米人の事前校閲を指示する。英語が悪いというなら一部であっても自分で直すべきである。自分では直せないが、悪いことだけはわかるというのは奇妙だ。人によっては「たとえばこのように」と例をあげることもあるが、それこそ英語がまずくて採用できないことがしばしばである。

 日本人の書く英語に限界があるのはもちろんである。私も英語で論文を書き始めてから20年間、論文英語の表現には努力を惜しまなかったつもりだが、冠詞の用法などはもうほとんどあきらめている。だからこそ、何か批判をしなければならないという‘強迫観念’にとらわれているreviewerにとって、「英語が良くない」という指摘は、まずは無難な一手と言える。そう言われて、自分の英語は英米人並だと胸をはれる日本人研究者は一人もいない。しかし日本人が英米人並に英語を書く必要はない。少しくらいおかしくても、意味が通じて誤解を招かなければnon-nativeの科学論文としては十分だと私は思っている。

 英語の問題から少し離れるが、論文の完成度が高くあまりコメントすることもないという場合、reviewerの側に、それでも何か言わないとreviewerとしての資質を疑われるのではないかという心理が生まれやすい。これは無論ナンセンスなことで、特に言うこともないと判断すれば「このまま掲載してよい」というところにチェックを入れて返すべきだ。

 英米人に読んでもらえばすべて満足に改善されるというわけでもなく、もともとが手におえないほどなら読んでもらってもよくはならない。また、あまりていねいに読んでくれないこともある。文法的に明らかにおかしい直し方をしてあったり、単に自分の文体に合わせているのではないかと感じることもある。たとえば同じことを言うのにA、Bの2つの表現があったとして、初めAと書いてあったのを、ある英米人がBと直し、そんなものかと従ったところ、投稿後にEnglish editorがまたBをAに直した。これをBのままにしておいたら、日本人のeditorから、なぜ従わないのかと問い合わせが来るというぐあいである。コンプレックスのゆえか、日本人は英語に対して神経質になりすぎているようだ。

 うまいへたにかかわらず、英米人に読んでもらえれば、それぞれのレベルに応じて表現が改善されるのは確かである。だが、論文英語の質は、それぞれがいかに努力したかではなく、ある一定レベルに達しているかどうかで判断されるはずのものだ。英語に堪能なeditorやreviewerを容する海外誌の場合は、この基準になっている。まずまずと認めれば向こうで少し手を入れて通すし、一定レベルに達していなければ返される。しかし日本人のreviewerにはこの判断ができないので、せいぜいAcknowledgementsを見て、英米人の名前があればよしとし、なければ直してもらっていないと勝手に判断して、機械的に「英語がよくない」というコメントをつける。こういう現状では、すべての論文に、投稿前の英米人による閲読を義務づけるしかないかもしれない。事実そのようにしている雑誌もある。これは本当はおかしなことなのだが、英語のわからないreviewerが見当はずれのコメントをつけて、事態を混乱させるよりはましであろう。

rejectの条件

 すべての原稿が、学術雑誌に掲載可能なわけではない。従ってrejectという判断は場合によって避けられないが、reviewerはeditorに対してrejectを助言する前に、それをすればその論文を、データやプラス面まで含めて永久に葬ることになるかもしれないという可能性について真剣に考えるべきである。まず、著者に基本的な研究者としての鍛錬が十分でなく、原稿が科学論文の基本的要件を満たしていない場合は当然rejectとすべきだが、これはおそらくeditorの段階で処理され、reviewerまで回ってくることはないと思われる。reviewerまで来た原稿をrejectせざるをえない場合として、2つのケースが考えられる。一つは、著者の意図にかかわる問題である。著者がある目的のためにデータを集め、その目的に添う結論が出たという体裁になっているが、実は途中の部分に欠陥があって、目的が達せられていない。しかもそこから他の有効な結論を見出すこともできないという場合。二つ目は論証精度。結論の精度が甘く、「科学論文が満たすべき水準」をクリアーしていない。加えて「その雑誌が要求する(と思われる)水準」を考慮するreviewerもいるかもしれないが、先に述べたようにその判断は微妙である。これら2つのケースとも、著者の手持ちのデータの範囲で、筋立てや分析方法を変えることで改善できないかということを、reviewerなりに十分に探ってみるべきだ。データを取り直さない限り無理という結論に至れば、rejectもやむをえない。

 掲載不可についてのコメントは、その論文のマイナス面だけでなく、プラス面も述べて、客観的評価を下すべきである。マイナス面だけ列挙して、「以上のことから総合的に判断して」rejectと述べるreviewerがいるが、‘総合的評価’になっていない。データ処理のミスや論理構成の甘さ、議論における推測的表現の多さなど、改善可能な項目を列挙してもrejectの理由にはならない。一つの欠点を、場所を変え、表現を変えて何度も繰り返す例があるが、一度言えばわかる。また、そうした書き方は、実際以上に論文の価値を低く見せることにつながるので、避けるべきである。reviewerにしてみれば、いったんrejectとした以上、否定的に書かないとその判断を正当化できないという心理が働くのかもしれないが、そうした姿勢はauthorの側に、このreviewerは初めからrejectするつもりで読んだのではないかという疑念を起こさせるだろう。いかにすぐれた論文でも欠点は必ずあるのだから、欠点だけ並べればいかなる論文もrejectできる。却下という決定的な意見を述べるのであれば、その理由を誰が見ても納得できるように、客観的かつ明快に述べる責任がreviewerにはある。


 私自身の少ない経験を中心に、reviewerのあり方について意見を述べてきたが、全体を通して、reviewerがどうあるべきかというよりも、どうあってはならないか、‘べからず集’のようになってしまった感がある。これを読んで、「そんなにいろいろ言われるならやりたくない」と思う向きがふえては本稿の趣旨に反することになる。しかし論文は科学者が心血を注いで行った研究の最終成果であり、これを評価するという重要な作業は、軽い気持ちでできることではないはずである。その意味で、私は論文投稿の経験の浅い大学院生など若手研究者にreviewを任せるのは好ましくないと考えている。自分が受けた様々なreviewerのコメントの中で、何が不適切だったか、また何が役に立ったかなど、よく反省しながら、自分なりにreviewingのあるべき姿を探って行くべきではないだろうか。

 しっかりしたコメントをつけるreviewerはたくさんいるので、そうした例をあげることはできるが、良くない例の逆ということになるので重複する。ここでは私の経験した事例から一つだけあげておきたい。ある海外誌に投稿したところ、しばらくしてeditorから連絡文とコメント付きの原稿が返送されたが、そこに一編の論文コピーが同封されていた。reviewerが著者の立場を慮って(私は論文で、自分の所属を現住所で書く)引用すべきだが手に入りにくい文献を送ってくれたらしい。当時私は大学や研究機関と疎遠になっており、自分で何とかするとなるとかなり困ったことになるはずだったので、これはありがたかった。単に好都合という以上に、そのreviewerの心情に感じたことは言うまでもない。もちろんreviewerはこのようなことをする必要も義務もないが、すべきでないという理由もない。こうした人間的な配慮によって生ずるプラスの結果もまた、reviewerの貢献に数えられてよいはずである。

 本稿が、現在ほとんど‘野放し’になっているreviewingの現状に一石を投じ、議論の糸口を与えることになれば幸いである。最後になったが、自らの経験したreviewingの具体例について、情報を提供して下さった方々に感謝したい。


寄稿「『雑誌のreviewerはどうあるべきか』を読んで」沼田英治 (2000) Argonauta 3:3-7.

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