展示の様子

1. ナチュラリストの視線

 大阪にはこんな生きものがいる、こんなふうに大阪の山はできたのだ、ということを調べたのは誰でしょう?研究所や大学の専門家だけでしょうか?
 いいえ、ちがいます。大阪の自然は、自然に興味を持った多くの人が、みんなで調べてきたのです。
 それでは、大阪のすぐそばにある山のことなど、もう調べ尽くされてしまっているのでしょうか?
 いいえ、ちがいます。大阪の自然には、まだまだたくさんの「誰も知らない」謎がひそんでいます。
自然に興味を持って見つめている人のことを、この特別展ではナチュラリストと呼びます。大学などで専門の勉強をしてきた人だけではなく、子どもから大人まで、たくさんのナチュラリストが活躍しています。
 ナチュラリストとはどんな人でしょう。その目線を追ってみましょう。

2. 博物学の時代

 昭和の初めの頃まで、旧制の中学校には「博物」という授業がありました。今の地学と生物をあわせたような科目です。このため、旧制師範学校にも博物の教授がおり、その地域の生物や地学に関する人材育成の中心になっていたのです。卒業した学生らは、旧制中学、そして戦後の高校の教師となっていき、その後花開く「なにわのナチュラリスト」たちの素地を作っていった時代ともいえます。天王寺にあった第一師範、池田にあった第二師範を中心に彼らの活躍を追ってみたいと思います。

3. 先駆者たち

 江戸時代、大阪には道修町を中心に薬種問屋が広がり、本草学そして蘭学の伝統がありました。また大阪は西日本の玄関口であり、物流の面でも、それに付随する人や情報の流れからも交易拠点だったのです。朝鮮通信使も、長崎にいたオランダ人も、長崎から江戸への参府には瀬戸内海を進んだ船が大阪で上陸し、京都を経て東海道を進むという経路をたどっています。
 このコーナーでは江戸時代に活躍したナチュラリストのうち、近畿、特に大阪に関わりの深い人々を取り上げます。

4. 大阪の自然解明史

 「町人学者」であり教育者であった山片蟠桃の懐徳堂、そして幕末の緒方洪庵が興した適塾。江戸時代の大阪の蘭学には、江戸とは異なる「町人」の気風があったといいます。適塾で学び後に慶應義塾を開く福沢諭吉は、適塾の日々をふりかえり、江戸よりも大阪の塾生の実力に軍配を上げています。その理由として、町人の町大阪では出世や栄誉と無関係に、純粋に学問に取り組めたからだと指摘しています。
 このコーナーでは、主に戦後のナチュラリストたちに注目し、大阪の自然を明らかにしてきた過程とともに、その人物像を紹介します。かれらも、出世と無関係な学問を、自然に対する好奇心に突き動かされて追求したという点で、こうした懐徳堂や適塾の「町人学者」の気風に連なる人々といえるかも知れません。
4-1. 梶山彦太郎と大阪平野のおいたち
 2万年前から現在まで、大阪平野がどのように形を変えてきたのかを明らかにしたのが、梶山彦太郎さん (1909-1995)と、大阪市立大学名誉教授市原実さんです。
 梶山さんは十三郵便局長つとめながら、大阪各地の数え切れない工事現場をおとずれ、地層を観察し、化石を採集して、それぞれの場所の環境の変化を推定してゆきました。さらに、文献に出てくる古代の道、古い時代の国境、そして発掘でわかった古代のお寺や集落の場所なども考えに入れつつ、古代の地形の変化を明らかにしていったのです。
 梶山さんのあくなき探求心の原動力であった「母なる土、大阪」に対する限りない愛着と、専門にこだわらない発想の幅広さが、大きな成果を生み出したと言えるでしょう。
4-2. 身近な地層:大阪層群の研究
 地質学はもともと、石炭や石油、有用鉱物など、資源開発のために発達した学問でした。しかし大阪層群など丘陵をつくる地層からは、資源はあまり期待されなかったため、戦前には、詳しくは調べられていませんでした。
 第二次世界大戦後、日本は燃料資源の不足が深刻でした。そこで大阪の周りの丘陵や大阪平野の地下でも、天然ガス田や亜炭層をさがす調査が盛んに行われました。天然ガスは見つかりませんでしたが、丘陵の地層の年代や、そこから見つかる化石の移り変わりなどが詳しくわかりました。そして大阪層群は、日本で地質学や古生物学を研究するときの「教科書」の役割を果たすことになりました。
4-3. 大阪を取り囲む山地の地質
 大阪の三方を取り囲む山地は、二上山をのぞくと、古生代末から中生代にかけての古い時代にできた岩石からつくられていて、山地によって岩石の種類やできた時代がちがっています。北摂山地は中生代ジュラ紀の丹波帯の付加コンプレックスと白亜紀の花こう岩類、金剛・生駒山地は白亜紀の花こう岩類、和泉山地は白亜紀に海に堆積した和泉層群からつくられています。
 地層や岩石の分布については1950年代には明らかとなっていましたが、より詳しい時代論や日本列島のテクトニクスとの関係などは1980年代からの研究でわかってきました。これらの研究は大学や研究所の研究者を中心に行われましたが、和泉層群の化石の研究には、アマチュアナチュラリストによる化石の発見が大きく貢献しています。
4-4. 大阪の植物相解明史
 大阪の植物相の解明は、「近畿植物同好会」という他にあまり例のない、長い歴史を誇る同好者集団によってなされました。会を設立するとともに初代会長として世話役を務めた堀勝さんによる『大阪府植物誌』(1962)が、その一応の集大成ですが、堀さんは会を代表して書いたのであり、その成果は田代善太郎さんをはじめとするよき指導者と多数の会員の協力によるものであることを自序で述べています。
 大阪の植物研究グループにはもうひとつの流れがありました。研究の遅れているシダ類やコケ類を基本から勉強して、植物相の解明を目指そうという「関西シダとコケ談話会」の活動です。ここでも、田川基二博士というよき指導者と、児玉務さん、瀬戸剛さんというよき世話役がいて、長く会を導いてきました。
4-5. 大阪のシダ・コケ解明史「しだとこけの談話会」の誕生
 大阪のシダ・コケの研究は、学生だった児玉さんと瀬戸さんの出会いから始まります。昭和20年、瀬戸さんは旧制の桃山中学三年でした。学校には、充分な設備も教員もない時代、生物は第一師範学校(後の大阪教育大学天王寺分校)から千原勉さんが教えに来ていました。この千原さんは八木沼健夫さんの先生でもありました。この千原さんが「非常に植物に詳しい熱心な師範学校の学生」であった児玉務さんを瀬戸さんに紹介したのでした。瀬戸さんが標本を持って児玉さんを訪ねたある日、「瀬戸君、僕は今日、京大の田川先生という偉いシダの先生に教わりに行くねん。君も一緒に行けへんか」と誘われ、二人で標本を持って教わりに行ったそうです。田川さんは、遅れている日本のシダ植物の分類を、何とか世界の水準まで引き上げたいと志した人でした。そうした訪問が何度か続き、「君たち、本当にシダの勉強をしたいのなら、きっちりした指導を受けなくちゃダメだ。君らにその気があるなら、僕が面倒を見よう。みんなが京都へ出てくるのは大変だから自分が大阪へ行こう。」大喜びの二人が、二人だけで聞くのはもったいないと、みんなに呼びかけて作ったのが、シダ類談話会(後にしだとこけ談話会)の始まりです。

 第一回の例会は昭和25年9月、瀬戸さんがアルバイトをしていた大阪学芸大学天王寺分校で行われています。児玉務、瀬戸剛、山中雅也、稲田又男(兵庫のシダを研究、標本は兵庫県立人と自然の博物館に収蔵)、堀勝(大阪のフローラ解明史参照)、中島徳一郎(蘚類の研究者)、米沢新治、桑島正二(大阪府植物目録)、岡田清(大阪大学)、川崎正悦、建部恵潤(兵庫県のコケ研究者)、室井綽(竹の研究者)、岡村はた(『ほんとうの植物観察』など著書多数)、水谷正美(後に田川さんの推薦で服部植物研究所へ)など、大阪・兵庫在住のメンバーが集まり、後に院生として加わった北川尚史さん(奈良教育大学名誉教授)は「京大の学外の人ばかりであり先生にとっては優秀な外弟子であった」と書いています。岩槻邦男(東大名誉教授、現人と自然の博物館館長)、加藤雅啓(国立科学博物館)、光田重幸(同志社女子大教授)、布藤昌一、真砂久哉、大田耕二郎、長谷川二郎(南九州大学副学長)、出口博則(広島大学教授)ら、後に学会でシダやコケの研究をリードしていく面々も加わっていきました。こうして多くのアマチュア・院生が集う団体として成長していき、大阪のみならず近畿地方のシダ研究・コケ研究は大きく裾野を広げたのでした。
4-6. 淀川動物解明史
 淀川には、人工物である水制によって自然に作り出されたワンドやタマリがあって、かつてその中流域にあり1940年代頃までに干拓された巨椋池いた多くの種類も含めて、多くの生物を育んできました。そのワンドやタマリは1970年代頃から、川の直線化、河川敷の利用によって姿を消してきましたが、淀川の治水事業と生態系保全の調和をはかるため、1972年より淀川河川敷生態調査が行われました。調査には、自然史博物館の筒井嘉隆前館長(当時芦屋大学)や大学の研究者が参加しましたが、多くの小中学校、高校の自然が好きなナチュラリスト先生たちの協力もありました。
4-7. 大阪湾の海岸生物解明史
 1960年代に始まる高度経済成長の中で、海岸の生物の様子は大きく変わりました。しかし、高度成長が始まる以前の海岸の生物の記録が残されている例は全国にほとんどありません。大阪湾では、濱谷巖さん(元大阪教育大学付属高校教諭)の観察記録と標本によって、1950年代後半の大阪湾南部の海岸生物の種類と様子を詳しく知ることができます。当時、岬町の淡輪には干潟が広がり、水中にはアマモという種子植物が群落をつくっていました。残念ながらこの干潟はすべて埋め立てられ、干潟やアマモ場に固有の生物は姿を消してしまいました。また、濱谷さんは岬町の南淡輪や和歌山市加太の岩礁海岸の生物の記録も詳しく残しました。今ではまったく見られないシロカラマツガイなども当時は生息していたことがわかります。
 その後1980年に博物館を拠点とする大阪湾海岸生物研究会が発足し、岬町から加太にかけての海岸6ヵ所に定点を定め、海藻と動物の種類を記録するモニタリング調査を25年間継続しています。
4-8. 大阪の昆虫相解明史
 大阪で最も昆虫相がわかっている地域が箕面なので、別項目で紹介します。大阪全体については、ここでは全てを紹介しきれませんので、主な出版物(単行本)とサークルを紹介します。
 能勢地方については、『能勢の昆虫』シリーズ(仲田元亮著)と『北摂の昆虫』シリーズ(大阪昆虫同好会)、大阪市内に関しては、『大阪のみどりと生き物』シリーズ(大阪市環境保健局)、大阪府全体については、『大阪府野生生物目録』(大阪府)が主な出版物です。
 博物館の出版物としては、『大阪の昆虫 陸生篇1』、『大阪の自然 生物篇』などの展示解説、『北摂の自然』などの特別展解説書、『大阪市内の蝶』、『スズメバチとアシナガバチ』、『大阪のテントウムシ』などのなどのミニガイドや収蔵資料目録があります。
 博物館を中心に活動した近畿オサムシ研究グループ(オサムシ類)、大阪の蛾を調べる会(蛾類)、現在も活動中の関西トンボ談話会(トンボ類)、日本直翅類学会(バッタ類)、野尻湖昆虫グループ(甲虫類など)、アサギマダラを調べる会(アサギマダラと寄主植物)、双翅目談話会(ハエ類)、カメムシ研究会(カメムシ類)の活躍が目立っています。

5. 友の会の歴史

 1950年、天王寺の美術館の廊下につくられた2台の展示ケースから、この博物館の歴史は始まりました。その5年後、この小さな博物館に期待を寄せる人々が、大阪市立自然科学博物館後援会を結成し、活動をはじめます。その後の博物館の活動、そして大阪のナチュラリスト育成を考える上で、この後援会(後の友の会)は非常に大きな位置をしめることになります。友の会と博物館の歴史をたどり、この博物館がナチュラリストたちによって育てられてきたことを振り返りたいと思います。
5-1. 大阪市立自然史博物館友の会と自然史博物館の歴史年表
 大阪市立自然科学博物館は、1950年に天王寺の美術館を間借りしてスタートしました。その後、1958年に旧靭小学校の校舎を改装して独立の建物となりました。さらに、1974年には長居公園に移転し、自然史博物館となりました。大阪市立自然史博物館友の会は、博物館スタートの5年後、1955年に大阪市立自然科学博物館後援会として誕生しました。それは大阪のナチュラリストが集う場ができたという意味で、記念すべきことでした。その後、博物館の節目に応じて、大阪市立自然科学研究会、自然史博物館友の会と移り変わり、現在に至っています。大阪のナチュラリストの歴史は、大阪市立自然史博物館とその友の会抜きには語れません。ここでは、その歴史を振り返ってみます。
5-2. 大阪市立自然史博物館が誕生したころ 筒井嘉隆の夢
初代館長 筒井嘉隆(1903-1989)
 大阪市立自然科学博物館(現・大阪市立自然史博物館)初代館長の彼は、大阪・北堀江の藍問屋の三男坊で1903年の生まれです。第三高等学校(旧制)を経て1924年京都帝国大学理学部動物学科に入学しました。学部5年、大学院3年を川村多実二教授に師事し、1932年大阪市の天王寺動物園に奉職することになりました。彼が動物園に興味を持つようになったのには川村先生の影響が大いにあったようです。1945年、終戦の年の春から1年足らずの短期間、天王寺動物園長をつとめました。そのあと、教育局社会教育課に転じてからは動物学系の博物館の実現に向けて行政組織や有識者に訴え続け、遂に1950年、自然科学博物館設置条例が市議会で制定され、初年度予算500万円も計上されました。しかし、計画は同年9月に大阪が受けたジェ−ン台風の被害のために実現せず、以後、筒井館長は苦難の道を歩むことになりました。

 建物の予算が台風で無くなったために、博物館は天王寺の市立美術館2階の小部屋を借りて事務室とし、部屋の前の廊下に数台の展示ケースを置き、館長、事務職員、学芸嘱託各1人というささやかなものでした。「施設がなくても博物館活動はできる」を信条として、研究者や同好者とともに各地の自然調査を行い、資料を収集しました。自然科学博物館後援会が同好者、有識者らによって結成され、会誌「Nature Study」第1号を刊行したのは1955年5月でした。条例制定から約8年後の1958年1月、靭公園南の戦災跡地に残った旧・靭小学校(当時大阪市立大学文学部)西半分を最小限改造して、やっとできたのが大阪市立自然科学博物館です。このとき5人の学芸員が専任され、小さいながらも博物館の体裁が整いました。彼は館外活動とくに普及活動を重視し、特別展はデパートのフロアーを借りるなどして開きました。彼の夢は、より充実した立派な博物館の新築でしたが、残念ながら大阪市の財政事情によって、その夢は在任中には実現しませんでした。
5-3. 後援会・研究会・友の会の会長と副会長
 後援会・研究会・友の会と博物館は、多くの方に支えられ発展してきました。ここでは、会長・副会長として友の会を支えてくださった方々を紹介します。大阪市立自然科学博物館後援会の会長は北川久五郎さん(当時、大阪教育大学学長)でした。研究会の初代会長は和爾俊二朗さん、2代目の会長は三木茂さんでした。三木さんが亡くなられた2ヶ月後に自然史博物館が開館し、友の会初代会長として粉川昭平さんが就任しました。粉川さんは、27年にもわたり会長をつとめました。那須さんは、友の会副会長・博物館館長として、大阪自然史センター設立と情報センター建設という、友の会・博物館が大きく移り変わる時期を支えました。
5-4. 友の会会誌Nature Study
 友の会会誌Nature Studyは、友の会の前身である大阪市立自然科学博物館後援会が発足した1955年から発行され、その発行数は2005年7月号で通巻614号を数えます。Nature Studyは友の会会誌という枠に留まらず、大阪の自然誌情報をいち早く、正確に伝える雑誌として知られています。昆虫や植物などの報告や調査結果を、学芸員・友の会会員とも積極的に投稿し、展示や普及行事だけでは補えない自然情報を提供してきました。
 博物館と友の会をつなぐ架け橋として、またナチュラリストの成果発表の場として、これからもさらに充実したNature Studyを作っていきたいと考えています。
5-5. 友の会と友の会会員の活動
 友の会では、自然を観察する行事として、月例ハイキング、夏の合宿、昆虫採集入門講座などを行っています。また「靱公園のせみの脱け殻さがし」などの調査活動も行っています。友の会会員は、こうした友の会行事や博物館の行事に参加するなかで、自然を観る眼を鍛え、個人で研究したり、様々な発見をしています。
 ここでは、友の会の活動や会員による自然観察・研究の成果を紹介します。
5-6. あなたも友の会へ ナチュラリストの入口
 これまで紹介してきたように、自然史博物館友の会と博物館は、ナチュラリストが集い活動する場です。友の会では、子どもから大人まで、自然に親しみながら楽しく学んでいます。だれでも、友の会の会員になることができます。
 あなたも友の会へ入会して、友の会や博物館の行事に参加しませんか。友の会はナチュラリストへの入口です。一歩踏み出せば、楽しく奥深いナチュラリストへの道がひらけることでしょう。

6. みんなもナチュラリスト

 博物館も友の会も、これから未来のことを見つめて活動を続けています。大阪の自然を見つめ、守るためには未来のナチュラリストが必要です。未来のナチュラリスト、それはきっとあなたのことだと私たちは考えています。大人も子どもも、「自由研究」をしてみませんか? 好奇心を広げて自然を見つめることからナチュラリストとしての一歩がはじまります。
6-1. 身近な自然を観察してみよう
 あなたが未来のナチュラリストといわれても…、
 ナチュラリストになるのは大変そうだし、自分には無理そうと思うかもしれません。しかし「偉人」とよばれる人たちも、最初は何も分からない素人でした。誰もが身近な自然観察からはじめ、どんどんその世界をひろげてきたのです。
 身近な自然の観察ガイドは、いろいろと出版されています。大阪市立自然史博物館でもミニガイドシリーズなどを出版しているので、ぜひ参考にしてください(1階のミュージアムショップで販売中!)。
 身近な自然観察といわれても、山とかに行くのは面倒〜、という方、自然観察は日常生活の中でも充分できます。ここでは、そんなヒントを少し紹介します。
6-2. 標本をつくろう なぜ標本を残すのか?
 記録のひとつとして標本を残すことには、計り知れない価値があります。まず、生き物や岩石・鉱物などの分布の証拠になります。仮に、間違った同定により記録が残されたとしましょう。その記録のもとになった標本が残っていなかったら、それが間違いだったかどうかを確認することは永久にできません。標本が残っていれば、あとから検討して訂正することができます。また、研究が進むことにより、種の分類などが変わっても、標本があれば再検討して新しい考えを取り入れることができます。
 生き物の場合は同じ種でも、環境や時期によって違うことがあります。その種の正しい理解のためには、いろいろな場所からいろいろな時期の標本を採集して、あとから比べることが必要になるのです。
 ここでは比較的簡単な、植物と昆虫の標本の作り方を紹介します。
6-3. 仲間の作り方
 自然観察などナチュラリストの活動の多くは一人でもできます。しかし、仲間の存在は、情報交換などを通じて活動を深め、幅を広げて行く上でとても重要です。そして、仲間がいれば活動が一段と楽しくなります。では、どうやって仲間を作ったらいいでしょう?
 もし、同じような興味を持っている人に出会ったら、仲良くなって一緒に活動したり情報交換したりすればそれですみます。でも、そう簡単に仲間が見つかるとは限りません。そんな時は、すでに活動しているサークルに加わるのがお勧めです。大阪には、自然史博物館友の会をはじめとして、さまざまな分野のたくさんのサークルが活動しています。
 ここでは、大阪周辺のサークルの一部を紹介します。もし、いろんなサークルがそれぞれどんな活動をしているか知りたかったら、ぜひ来年3月の大阪自然史フェスティバル2006に来てください!