ロシア沿海州旅行記
(021026更新)

日本海のむこう2001
2001年8月8日〜14日

日本海のむこう2002
2002年7月9日〜16日

こちら

●ソウルからウラジオストックへ
●喜びの再会
●浦潮斯徳(ウラジオストック)
●ヒョウのすむケドロヴァヤ自然保護区
●「トースト」〜ウラジオ郊外の夕べ〜
●沿海州の大自然を満喫
●リャブーシュカ
●バーニャとウォッカとハンカ湖と
●宝石のようなオサムシたち

こちら

●大阪からウラジオストックへ
●ウォッカは百薬の長
●国境の街,ハサン
●ケドロバヤ・パジ再訪
●ウスリースク自然保護区

●ロシア極東関連の文献(私的基準による)

訪問地の地図


ロシア沿海州旅行記1

日本海のむこう2001

●ソウルからウラジオストックへ

 ウラジオストック行きの大韓航空機は,韓国・仁川市にあるソウル新国際空港を定刻より約20時間遅れで飛び立った.沿海州方面が記録的な集中豪雨に見舞われ,昨日は日本海上空で仁川へ引き返してしまったのである.おかげで自らすすんで泊まることのないソウル中心街(明洞:ミョンドン)の5ツ星ホテルなぞに泊まり,昼食も夕食もおいしいプルコギを無償で口にすることができた.我々も不運であるが,天候のせいとはいえ,航空会社にも全くお気の毒様である.

 ソウルのホテルでチャンネルをまわすと,NHKの衛星放送が入り,早朝にはロシアRTRのニュースをやっていた.ウラジオストック方面の集中豪雨で4人が亡くなったと報じている.果たして本当に天気が回復するのか,また引き返すのじゃないのか,そんな不安に駆られながらも,飛行機は一応は北へ向かってすすんでいるようだ.

 それにしても,ロシア沿海州に行けるとは,まったく夢のようだ.私が北海道大学に通っていたころはまだ東西冷戦時代で,学部4年の時(1990年)に上った利尻岳からは,サハリンやモネロン(海馬)島の島影を眺めるだけで,その地に足を踏み入れるなどというのはまだまだ夢のようなことだった.しかも当時はソ連空軍による大韓航空機撃墜事件があった生々しさが残っており,北海道北部からサハリンにかけての海はまだまだ緊張状態がつづいていたのである.

 機内の乗客は言葉さえほとんど交わさないものの,すっかり顔見知りになっていた.なぜなら,昨日の午前の機内から,ホテルへの送迎バス,昼食,夕食,空港への送迎バスと,ほとんどずっと行動をともにしているからだ.まるで旅行会社主催のパックの温泉旅行に来ているようである.それに,何とかウラジオストックへ行きたいという思いを互いに共有しているから,なおさら連帯感が強いように思える.

 食事をガツガツ食べる小太りの中国人,ちょっとクールな韓国人,バックになぞの楽器を持っているアメリカ人,日本人グループの中で日本語を上手に喋るロシア人男性,いつも時間にルーズなロシア人女性などなど.少しずつそれぞれのキャラクターもわかってきた.ふっと高校や大学に入学したばかりの2〜3日目ごろを思い出した.あのころ,みんなこんな風にお互いのことを観察しながら過ごし,中から気の合う友達をさがしたものだった.

着陸前に飛行機から見えたロシアの大地.丘は緑ふかく,蛇行した川は豪雨のあとのため,多くの土砂を含んでいた.8月8日.

 そうこうしているうちに,飛行機が着陸態勢に入り,シートベルト着用サインが出た.本当にウラジオストックへ着けるのか?と窓を見下ろすと,緑の山と蛇行する川が見えてきた.やがて道路や牧場,まばらな民家やため池が見え,やがて滑走路に無事に着陸した.思いを共有していた乗客からは,いっせいに拍手が起こった.空港からはシラカバの林が見え,空港の建物にロシアのキリル文字でVLADOVOSTOKの大きな文字が見える.

ウラジオストック空港へ無事到着.大きな空港ではない.2001年8月8日.

 飛行機を降りて,パスポートコントロールなどが始まる.このとき,初めて思いを共有していた人たちが,どこの国の人なのかがわかる.とくにロシア人は外国人とは別のゲートで通関できるので,すぐにわかるのであるが,他国人同士でも持っているパスポートの色で,日本人か韓国人か台湾人かがわかった.意外に台湾から来ている人が多いようだ.

 国際空港といってもとても小さな空港で,通関のためにならんでいる向こうの扉はもう外界のようだ.迎えに来ている人のなかに,ヴィクトルさんの姿が見えた.昨日,ソウルのホテルから送ったFAXと電子メールがうまく届いたのだろう.不安が一気に吹き飛び,これからのロシアでの滞在生活へ向けて,明るい日差しが差し込んできたようだった.

●喜びの再会

 無事通関し,ヴィクトルさんと抱き合って再会を祝った.昨日も豪雨の中,私たちを空港でずっと待ち続けてくれていたようだ.

 さっそく車へ移動するが,私たちの荷物の量はただごとではない.とくに私の大型のスーツケースはすごい重さである.中には寄贈用の分厚い本がいくつかあるほか,ライトトラップ用のバッテリーなどが入っている.重い荷物を見て,ヴィクトルさんは僕にたずねた.

 「きみ,原子爆弾でも持ってきたのかい?」.

 「あなたの国と違って,日本に原爆はありませんよ」と答えようと思ったが,旅の疲れと荷物の重さで,ツッコミを入れる元気もすっかり消耗していた.

 空港へはアナトリーさん(初対面)の車で来てくれた.大きく古そうなロシア車である.さっそく乗り込んだところ,すごいエンジン音をたてて走り出した.乗り心地はけっしてよくはないが,とりあえずパワーはありそうだ.

 北海道そのものの森や草原が広がるうちに,ロシア科学アカデミーの研究所に到着した.周囲はシラカバの白い幹が美しく,ツリフネソウの赤い花が風にゆれる,のどかな場所である.

 研究所はずいぶん古い建物のようで,ヴィクトルさんのようなベテランの研究者でも,若い同僚(多分,20代前半)のエヴグェニさんと同室である.そのエヴグェニさんも近々,カナダの研究所へ移籍してしまうらしい.今まで後継者を育てようと,一生懸命になってきたのに,有能な人はみんな北米や西欧へ行ってしまうのだと,ヴィクトルさんは嘆いておられた.エヴグェニさんの研究テーマはウスバキチョウのDNA解析のようで,国際学会で堂々たるポスターセッションもしているようであるが,確かにこの研究所で研究を継続するのは難しいのかもしれない.

 美味しいお茶とハムやチーズをいただいたあと,さっそく研究所の所蔵標本を拝見した.私の調べているハナノミ科でも2箱もある.さすがに旧北区系のものが多く,同定が困難なものばかりであるが,いくつかは種レベルで確認できるものもあり,有意義な時間を過ごすことができた.

 標本を見ていると,ゲルマンさんがやってきた.この研究所でゴミムシなどを研究している方である.私がハナノミの標本を見ていると,「そういえば,むかし北海道大学へ行ったときに,ハナノミを研究している若い学生がいたけど,君は知り合いかい?」などと尋ねられた.「It's me!〜それは僕ですよ」.私が修士課程の学生だったころ,ウラジオストックから3人の研究者が来られたのを覚えているが,その中にゲルマンさんもヴィクトルさんもいたのである.初対面ではなかったのだ.こんな形での再会とは思いがけない.

●浦潮斯徳(ウラジオストック)

 市内の宿舎への移動がてら,ウラジオストックの観光名所に連れていってもらった.高台の展望台からは金角湾が見渡せ,港にはたくさんの軍艦が停泊している.さすがはロシア太平洋艦隊の基地である.

 ウラジオストックの車の多くは日本車である.ロシアは日本と異なり,右側通行.こんなに日本車が多かったら,日本と同じ左側通行にすればいいのに.
 それと,せめて塗装ぐらい塗り替えたら?と思う.◎◎運輸のトラックとか◎◎旅館のマイクロバスとか.でも日本人が見ていて,とても楽しい.

(上:展望台から見た金角湾,下:旧市街地ふきん.ともに8月8日)

 ゴルバチョフ書記長(当時)の「ウラジオストックをアジア・太平洋に開かれた街にする」という宣言(ウラジオストック演説:1987年)を契機に開放された以前には,外国人がこの場所に立って風景を撮影をすることなど,まったく考えられなかったことであろう.時代は変わったものだ.

 観光ガイドブックなどによく書かれているように,ウラジオストックVladi-vostokというのは,ロシア語で「東方を征服せよ」という意味で,ロシアの東進の拠点となった街でもある.しかし,このあたりは16〜19世紀ごろには満州族が治めていた時代もあるようで,中露間で結ばれたネルチンスク条約(1689年)では,沿海州地方とその北のプリアムーリエ地方は中国領と認められている.これらがロシア領となったのは,1860年の北京条約以降のことである.

 これらの経過もあって,沿海州各地には比較的最近まで,地名に満州族の支配していた時代の中国名がたくさん残っていたようである.それらの地名が完全にロシア化されたのは1960年代の中ソ対立(1969年にはアムール川/黒竜江のダマンスキー島/珍宝島で国境紛争)の時代だそうで,それ以前は今回の旅で訪れるイリスタヤ川もガケレフの谷も,ずっと中国名で呼ばれていたようである.年輩のロシア人昆虫研究者の中には,ロシア地名でなく中国地名しか使わない(使えない)人もいるそうである.

 日本人にとって,このウラジオストックは特別な街であろう.明治時代には「浦潮斯徳」という漢字表記をされていたそうで,日本人もずいぶんたくさん渡航し,居住していたようだ.戦前の日本領事館の建物も今も残り,またウラジオ北方40kmの日本人(シベリア抑留者)墓地,さらには街を走る車の大部分がロシア船員によって小樽や新潟などから持ち帰った日本車であることを見ても,この街が日本と深い関わりをもつことを実感させる.地図を改めて見返すと,弧状に連なった日本列島のコンパスの中心に位置しているのが,このウラジオストックである.

 しかし,これほどにも近くでありながら,街並みはやはりヨーロッパそのもので,坂を上る市電などは情緒たっぷりである.

 宿舎へ帰り,ビールやウォッカなどを口にしたあと,眠りについた.明け方近くに目が覚め,ラジオをつけたところ,大阪のラジオ局がNHK,民放ともクリアに受信でき,日本海をはさんだだけの距離の近さを実感させられた.

●ヒョウのすむケドロヴァヤ自然保護区

 その翌日,ひきつづき標本調査をしたあと,午後からはフィールド調査のはじまりだ.近郊のバザールでいろいろなものを買い出して,フィールドでの滞在に臨む.最初の行き先は,中国や北朝鮮との国境にほど近いハサン地区にあるケドロヴァヤ自然保護区である.

 この保護区はウラジオストック市のある半島のすぐ西側で,晴れた日には見えるような距離にあるが,車で行こうとするとずいぶん回り道をせねばならない.途中に中国・黒竜江省に源を発し,ウスリースク郊外を経て日本海へ注ぐラズドリナヤ川を西へ渡るのであるが,その河口部に非常に広い湿原帯があり,橋をかけるわけにはいかないようである.河口から北へ40kmも回り道をした橋のまわりでも,川は蛇行しているらしく,何度も同じ広さの川に橋が架かっており,スケールの大きさを思い知らされる.河口付近には釧路湿原を何倍にもしたような湿地帯が広がり,人間臭さも居住の痕跡も全くない.大自然が広がるばかりである.

 道路の脇にはたびたび単線の線路が見えるが,これが沿海州南西部のハサン地方,さらには北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を結ぶ鉄道である.金正日(キム・ジョンイル)総書記が鉄道を使って,モスクワへ向かったニュースが先週あたりに流れていたが,それがまさしくこの線路なのである.ヴィクトルさんによれば,キム氏が通過する前後は警護の兵士がたくさん,この線路の周辺を見張っていたらしい.

 ハサン地方へ向かう.森のむこうは日本海.手前の鉄道は北朝鮮国境のハサンとを結んでいる.1日に1往復程度しか通らないらしい.8月9日.

 豪雨で道が壊れている懸念もあったが,ウラジオストックを出発して4時間ほどで,特に問題もなく,無事にケドロヴァヤ自然保護区に到着した.宿泊する山小屋は電気が通っていて,ベッドもあり,覚悟していたよりも立派なものだった.周囲はモンゴリナラやカバノキ属,ハンノキ属を主体とした落葉広葉樹林で,ナナカマドが白い花をつけており,北海道の雑木林のようである.ロシア国内でも古い歴史を誇る自然保護区で,植物では沿海州に記録される半分の種がここの保護区に分布しているという.哺乳動物でもタヌキ,ヒマラヤグマ,ノロ,ニホンジカ,イノシシなどのほか,ヒョウのような貴重な種類も生息しているらしい.

 ケドロヴァヤ保護区に優占するモンゴリナラ(右)とハンノキの一種(左).

 ケドロヴァヤ保護区の豊かな自然.ヒメトラハナムグリ(左上),クジャクチョウ(右上),センチコガネ(紫が美しい:左中),ヤブキリの一種(右中),ヤドリバエの一種(左下).

左:ミミズクの一種(カゴに飼われていた),右:ジェンシン=朝鮮人参(当地では極めて貴重ものらしい).

●「トースト」〜ウラジオ郊外の夕べ〜

 やがて日が暮れ,夕食である.すべてロシア人連中が準備してくれるのだが,料理の腕前もなかなかのものである.カスカスの黒パンはあまり美味いとは思わないが,中には近くでアナトリーさんが釣ってきた魚のフライやボルシチなど,山小屋でありながら本格的なモノもある.

 ロシアではやはり,ウォッカで乾杯である.ロシア語では乾杯を「トースト」という.ひとりずつ何か乾杯の対象(私たちの健康,ケドロヴァヤの素晴らしい昆虫,日露友好などなど)をあげてトーストし,小さなグラスを飲み干すので,トーストを繰り返しているうちに,ずいぶん酔っぱらってしまう.

 私は外国でのディナーの席で,いつもある小道具を用意している.それはポケットサイズの語学の辞書である.料理をいただきながら,「その魚は何の種類?」「日本語で何と呼ぶ?」「ビールはロシア語で?」などなど,これ1冊あれば,ディナーでの話題に事欠かない.1995年と97年に中国に行ったときも,日中・中日辞典を持参し,いろいろ楽しい話題ができ,中国語の単語も覚えられ,日中友好に役立ったものだった.今回ももちろん小さな「露和・和露辞典」を準備して臨んだ.

 ところが,小道具ではロシア側にすっかり負けてしまったようだ.むこうはアナトリーさんがディナーの小道具に,楽器のマンドリンを持っていたからだ.日露辞典は2カ国語だが,音楽は世界共通である.「カチューシャ」「モスクワ郊外の夕べ」など,私たちも知っているロシアの歌も奏でてくれた.「カチューシャ」はロシア語の歌詞がわからないが,日本語の歌詞(♪リンゴの花ほころび〜)なら知っているので,ロシア人たちを前に日本語の歌も披露した.

 マンドリンの他にも,ガットギターもあったので,私の数少ないレパートリーから「イェスタディ」(ビートルズ)や「昴」(谷村新司)も披露した.「イェスタデイ」は知っていたようであるが,「昴」はロシア人は誰も知らないようだ.中国人の間ではとても有名な曲だったが.

 ディナーに加わったこの保護区の管理人(哺乳類の研究者)によれば,この保護区のこの小さな山小屋にはかつて,あの植村直己氏(登山家:マッキンリーで消息を絶った)も来られたことがあるそうだ.植村氏はギターも歌もうまかったらしく,「黒い瞳」(=映画音楽「ゴッドファーザー〜愛のテーマ〜」)がお気に入りの一曲だったそうで,その美しい音色が今も耳に残っているという.アナトリーさんは一生懸命,この曲を練習していた.

アナトリーさんの釣ってきた魚.すぐにフライになって食卓へ.

●沿海州の大自然を満喫

 翌日は朝食のあと,ケドロヴァヤ保護区の森を歩いてまわった.コムラサキやクジャクチョウ,エゾトンボの類,セリ科の花にはヒメトラハナムグリのほか,私の調査対象のハナノミも来ていた.訪ロ時期がずいぶん遅いかと思っていたが,何とか見られてよかった.また,ハナアブなどの双翅類はかなり多いようで,同行のハエ屋はきっと喜んで採集していることだろう.

 セミは鳴き声から判断して,このあたりに少なくとも2種はいるようだ.ひとつはエゾゼミの類(Tibicen属),もうひとつはチッチゼミの類(Cicadetta属)である(※).長竿を伸ばしてみるが,残念ながら鳴いている場所が高くて,とても届かなかった.樹上にはほかに,ヤブキリがカチャカチャ鳴いているが,こちらはたまたま下に降りてくるのがいて,姿を見ることができた.

 (※沿海州ではエゾゼミ属は,南部にコエゾゼミが分布するのみらしい.鳴き声を聞いたのはこれであろう.チッチゼミ類は3種が分布するので,どれかよくわからない)

 山小屋での昼食の後,午後は山を下って海辺の近くの湿地帯へ行くことにした.胴長と水生昆虫用の網を手に,車に乗り込んだ.

 北朝鮮国境のハサンへ向かう鉄道を東へ超え,広い湿地帯へ出た.振り返ると山の麓にケドロヴァヤの森が向こうに見えているが,それ以外には樹木としてはヤナギが生えている程度の広大な湿原である.ところどころに水のたまったところがあり,ミクリの類も生えている.ネクイハムシではアシボソネクイハムシがたくさん見られたほか,ドナキア・アクアティカ(Donacia aquatica)という日本に分布しない種類も見つかった.他には緑の鮮やかなカエルや,ガケレフの谷の湿地でゲンゴロウ(Cybister japonicus)などもいたが,どうも水生昆虫を探すには広すぎてポイントが絞りにくい.豪雨の後であることも災いしているかもしれない.

湿地帯のようす.右上はオオルリハムシ.

●リャブーシュカ

 ケドロヴァヤ保護区の山小屋では,結局2泊した.その後はいったん来た道を引き返し,ウラジオストック北郊のバラノフスキィからさらに北へ上がり,広大なハンカ湖のほうへ向かった.途中の大きな街ウスリースクのバザール(市場)で買い物をし,昼食にピロシキなどを口にしたあと,モスクワへむかうシベリア鉄道の線路を西へまたいで,ハンカ湖のやや南にある大湿地帯の中の建物にたどりついた.ハンカ湖へ注ぐイリスタヤ川に近く,たくさんある三日月湖はこの川が湿原帯の中を蛇行していることを想像させる.上空から見ればきっとよくわかるのであろうが,平らな土地が延々とつづくだけの地形では,そのようすもさっぱりわからない.三日月湖の湖面にはオニバスの葉も浮かんでいる.

シベリア鉄道(チェルニゴフカ付近にて).モスクワまで1週間かかる.

イリスタヤ付近のようす.見渡す限りの巨大な湿地帯(左上)の中の宿舎(右上).左下はオニバスの浮かぶ三日月湖.

 到着後,さっそく周辺探索である.はるか遠くに小高い山々が見えているが,見渡す限りの大湿地帯である.とにかく静かで,鳥のさえずりだけが響いている.東西の広い舗装道路は延々とまっすぐにつづいており,さっきそばを通り過ぎた車のエンジン音がいつまでも鳴り響いているのが聞こえる.

 湿地性のゴミムシを狙って,サナギ粉のトラップを準備したが,さて,いったいどこに仕掛けようか.広い舗装道路から少し脇道に入り,そこからヤナギの疎らに生える湿地へ入り,脇道へ戻り,舗装道路へ戻り,脇道に入り・・・・というのを繰り返すが,なかなかよさそうな場所は見つからない.こちらもハサン地区の湿地帯と同様,広すぎてポイントが非常に絞りにくいのである.とりあえず,20個ほどのトラップをしかけるが,さてうまくいくかどうか?

 日が暮れはじめ,ライトトラップの準備に入った.日本からわざわざ持参したアウトドア用のバッテリーと2本の15Wのブラックライトを,建物の玄関前に備え付けた.時刻は午後の9時であるが,ようやく日没の時刻である.ウラジオストック周辺は日本の中国・四国地方のあたりと同じぐらいの経度にも関わらず,日本との時差は2時間あり,こちらのほうが早いのである.しかし,夕食というものは日が暮れないと食べる気にはなれないもので,このツアーでも9時からディナータイムが始まるのが通例となっている.

 今晩はウスリースクのバザールで仕入れたばかりの干し魚や鱒の缶詰,トマト,キュウリなど,やや豪勢なディナーである.やはり露和・和露辞典を傍らに持っておいた.

 食事の途中も,ライトトラップのようすが気になるので,ちょくちょく見に行った.小型のガムシの類,ナガドロムシ,トビケラのほか,それを狙ったカマキリ(ウスバカマキリのようだ)など,数はそれなりに来ている.そのまわりでは,キャンディか何かを日本人からもらおうと,近所の子供たちも3〜4人が集まっている.

 そこで私はいったん食卓へ戻り,和露辞典を開いて単語を確認し,右手にヘッドランプを,左手にビニール袋を,子供たちに手渡して言った.

 「リャブーシュカ」

 ロシア語で「カエル」のことである.これ1語で子供たちは僕が「カエルを採ってきて」と言っているとわかったようで,喜んで広場のまわりの草むらへ駆けていった.私たちが夕食の途中にも何度も私のところへやってきて,アカガエルのようなカエルを手渡してくれる.「もういらん」というぐらいまで・・・・・.子供たちには,日本から持ってきた博物館の下敷きやバッチ,キャンディなどをその都度あげた.こうして,ウォッカを飲みながら,楽なカエル採集ができたという具合である.

この付近で見られるアカガエルの一種(上)と,ライトをつけてカエルを探し回る子供たち(下).

●バーニャとウォッカとハンカ湖と

 午前7時頃に遅い夜が明ける(日本ではまだ5時なのだが).いよいよハンカ湖へ向かう日である.滋賀県出身の私にとって,大きな湖というのは何か特別なものを感じる.しかし,前日の「バーニャ」がこたえて,体調はよくない.

 バーニャというのは,いわゆるサウナである.ロシア人はサウナ好きと噂を聞いていたが,この湿原のド真ん中の宿舎の横にある煉瓦造りの建物が,そのサウナの施設だとは思わなかった.フィールドで汗をかいた後,タオル1本でそのバーニャなるものに足を踏み入れた.

宿舎の横にあるバーニャ(サウナ)の建物.

 ちょうど3段の階段状になっていて,焼けた石に水を振りかけて蒸気を発生させるのは同じであるが,カバやナラの葉っぱ付きの萎れた枝で,お互いの体を叩き合うというのが少し変わっている.それに,水を浴びて少し休み,また蒸気室に入って,水を浴びて休み・・・というのを1時間半から2時間ぐらいもの間くりかえすというのである.バーニャの浴び方を同行の朝鮮系ロシア人,イオシフさんが説明してくれるのだが,僕は30分も経たぬ間に「スパシーバ,スパシーバ(ありがとう)」と言って逃げ出してしまった.

 バーニャのあとは,日本人感覚ではもちろんビールである.フィールドで汗をかいて咽がカラカラの状態でバーニャに入ったから,心も身体もビール(ロシア語ではピヴァ)を欲していた.

 しかし,この国では酒はウォッカなのである.前述のように,それぞれが乾杯の理由を述べてトーストを繰り返す.心も身体もビールを欲しがっていたのであるが,ウォッカを口にしているうちに,とにかく液体なら何でもよくなってきてしまった.特にある程度酔っぱらってくると,飲んでいるものがウォッカかビールかお茶か水か,区別が曖昧になってくるというものだ.ここまでくれば,すべては後の祭りである.朝方にトイレで胃の中のものをほとんど戻してしまった・・・・・・・.

 この状態でハンカ湖に向かっている.道は舗装なぞされておらず,ガタガタと左右に揺れながらスパースクダリニの市街地を抜け,大きな湿地帯を通りながら走っている.前方には地平線が見えるのであるが,その向こうにハンカ湖があるのだろう,などと,やや朦朧とした意識で見ていた.

 やがて,灌木の影から水面が見え,私たちがハンカ湖の近くにまで来ていることがわかった.しかし,湖岸へ通じる道がよくわからないようで,何度か行き帰りを繰り返した後,ようやく広い湖面が目前に広がるところへ出た.

 ハンカ湖はやはりハンカ(半端)な大きさでない湖であった.この湖の北部4分の1ほどは中国領なので,当初は「あぁ,対岸は中国領なのかぁ」などと大津から伊吹山を眺めるような気分でいた.しかし,来てみて驚いたのには,対岸はおろか,手前側の右も左も,延々と湖岸線が見渡す限り続いている.たいへん視界のよい天候にも関わらずである.

 湖岸には琵琶湖と同様,砂浜が発達しており,その規模と質はやはり琵琶湖以上である.水際にはヨシが生えており,沈水植物もあるようだ.ハンミョウやバッタの仲間を狩るカリバチ,セイボウの類がたくさん飛び交っており,琵琶湖との共通性も感じられた.

 しかし,それにしても暑い.朝晩はトレーナーに寝袋というほど気温が下がるが,昼間は30度を超えているようだ.ロシア人連中はパンツ1丁で水浴びを始めたから,僕も思わずTシャツを脱ぎ捨て,ハンカ湖へ入ってしまった.湖岸から100メートルほど進んでも背が立ち,ずいぶん遠浅の湖である.泳ぎは得意ではないが,首まで浸かって暑さと2日酔いを発散した.

 岸へ帰ると,ロシア人連中は昼食の用意をしてくれていた.「やぁ,気持ちよかったかい?」「あぁ,向こう岸の中国まで行って帰ってきたよ・・・・」

 暑さと二日酔いから逃れるため,広大なハンカ湖に入ってしまった.中央に写っているのが筆者(同行の林成多氏が撮影).対岸は中国領だが,まったく見えない.これほどまでに広大な湖だが,非常に遠浅で,深さは最深部でも10メートルしかないらしい.

●宝石のようなオサムシたち

 ハンカ湖からの帰途,何カ所かの湿地で水生甲虫の調査をしたあと,チェルニゴフカ郊外の森へ行った.ここはヴィクトルさんのフィールドで,前日もみんなで訪れて昆虫の調査をし,ピットフォールのベイトトラップを仕掛けたところだ.オサムシがたくさんいる場所とのことで,私もサナギ粉のトラップを50個近く仕掛けた.さて,うまく入ってくれているかな?

 回収に行って驚いたのは,これまで経験がないぐらいのたくさんのオサムシが入っていたことである.打率(オサムシの合計数/トラップを仕掛けた数)でいえば,10割を超えているのではないだろうか.もちろん何も入っていないトラップもあるが,1カップに4〜5匹のオサムシが入っている場合もあるのだ.しかも,種類もアオカブリモドキ,ウスリーキンオサムシなど,関西あたりにはいない金ピカのオサムシも少なくない.オサムシ好きの同行者らも,心はすっかりハイテンションになっていたようだ.

 宝石のようなオサムシがたくさん.上は上品に青く光るフンメルカザリオサムシ,中がアオカブリモドキ,下がオサムシのトラップ.

 イリスタヤの宿へ戻り,夕食である.明日の午後はいよいよウラジオストック空港からロシアを離れるので,これが最後の晩餐である.

 これまで,ひとりずつ何かをしゃべらされるトースト(乾杯)の時は,一発ギャグをかますのが私のやり方だったが,この宵だけは真面目にみんなに感謝の意を表した.この6日間,天気にも研究成果にも恵まれたが,何よりもこんなに親切にしてくれた北の隣人たちに感謝したかった.スパシーバ.

 この場では,「沿海州に来て,これほどまでに自然や昆虫の種類が日本に似ていることに驚いた半面,やはり当然ながら似ているのかという印象も持った」と述べた.これまでこの地が遠い存在であったのは,明らかに政治的な理由であり,言葉も風習も違うからであった.しかし,距離が近い分,自然が似ているのは至極当然のことで,私たちナチュラリストも政治からは結局,これまでニュートラルであり得なかったことを示しているように感じた.地質学者のアナトリーさんも,ご自身の研究のことを交え,沿海州と日本の類似性の話をしてくれた.

 自然の世界に国境はない.それを改めて認識した旅であった.お土産用のウォッカを携えて,再びソウル行きの大韓航空機に乗り込んだ.天気がよく,西の窓側にずっと北朝鮮の海岸が見えていたが,日本海を取り囲むこれらの地に,政治などとは切り離して,サイエンティストが自由に行き来し,交流できる時代がくればいいのにと心の底から思った.(おわり)

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ロシア沿海州旅行記2

日本海のむこう2002

(ロシア沿海州旅行記2001はこちら)

●大阪からウラジオストックへ

 今回も前回の訪ロ時と同様,特別展準備の疲れをひきづったままのロシア入りとなった.しかも,娘が保育園でもらってきた風邪(熱と咳を伴う)をうつされてしまい,体調不十分なままで関西空港へ向かわなければならなかった.

 今回は大阪(関空)からウラジオストックへの直行便を選んだ.前回はソウル経由の大韓航空を利用したが,昨年の訪ロの後,春から秋だけに大阪からの直行便があることを知り,今回はそれを利用することにしたのである.航空会社はウラジオストック航空,機種はツボレフと聞いて,ちょっと不安になってしまった(失礼)が,たった2時間でロシア極東の大地を踏めるというのは,非常にありがたい.距離的にも札幌・新千歳空港へ行くよりも若干近いようである.

 関西空港を飛び立つと,梅雨最中の日本の土地はすぐに見えなくなってしまった.その後はずっと雲の上を飛んでいる.梅雨前線は日本海に横たわっているので,「これが前線かな」などと見下ろしながら,飛行機は日本海上空を北北西に向かって進んでいった.

 やがて飛行機が高度を下げ,雲の下から沿海州の大地が見えてきた.森の中に1本の道がすっと延びており,家々が散在している.去年も見た牧歌的風景だ.シラカバの生えるウラジオストック空港に無事に到着した.

ロシアの大地

 パスポートコントロール,税関を無事にくぐりぬけ,ヴィクトルさんと抱き合って再会を喜んだ.ユーリさん(蛾の研究者)とリザさん(研究所の女性職員)の車で,ウラジオストック市内の宿舎に向かった.ビクトルさんとは,しょっちゅうメールでやりとりしているから,特に新しい話題はないはずなのだが,それでもいろいろ双方の様子を車の中で話し合った.

 宿についたあと,近くの店(日本に多いコンビニエンスストア形式だ:ロシアでは初めて見る)で軽い食べ物とビールなどを買い込んで,再会を祝って乾杯した.簡単に打ち合わせなどをして,眠りについた.

ロシア極東でも出始めたコンビニエンスストア.


●ウォッカは百薬の長

 翌日,さっそく生物土壌学研究所へ行き,朝食のパンやソーセージ,おいしいお茶をいただいたあと,研究所の昆虫のスタッフらに挨拶した.特に昆虫部門のヘッドであられるLさん(ハチ類の研究者)とは部屋を訪ねて,初めてご挨拶することになった.

 Lさんは温厚で気さくな感じの方で,研究所の概要やスタッフや収蔵標本の数,研究所の出版物など,いろいろよくお話ししてくださるのはありがたいのだが,午前中のうちに収蔵標本の検鏡をしなければならない事情もあるので,正直「早く終わらんかな〜」という気持ちもあった.

 ようやく話が収束しかけた時,不用意にも僕が何度か咳き込んでしまった.風邪のことを心配してくださり,「薬は持っているか」などと言ってくださるのであるが,僕は今回,日本にいる時からついに風邪薬を飲まなかったので,薬は断った.

「このロシアで良いウォッカを飲むことが,最良の薬です」

 そう答えると,Lさんは

「そうなんだよ.ウォッカはね・・・・・・・」 

 とウォッカを誇らしく思うロシア人らしく,また延々とウォッカの話を始めてしまった.ヴィクトルさんが部屋をのぞきにこられて,何とか話を収束させ,標本室へ逃れた.

 午後に研究所を後にし,ウラジオストックの市街地の北側にある展望台へ行った.観光客が必ず立ち寄る場所で,昨年も来たが,今年のほうが天気が悪く,半島の向こうに見えるルースキー島もどんよりと雲がかかっている.

 市街地にも行きたかったのであるが,近々,政治・経済の国際会議が開かれるらしく,市街地地域の建物の再建が進んでいて,市街地に行くのは交通事情で難しいようだ.


●国境の街,ハサン

 この短い市内ツアーのあと,フィールド調査の始まりである.沿海州南西部ハサン地区にあるアンドレイェフカへ向かった.昨年訪れたケドロバヤよりもさらに南西で,北朝鮮国境にほど近い.北朝鮮へ向かう鉄路がずっと見えているほか,途中には警察の検問所などもあり,国境警備のものものしさを感じる.

 ここアンドレイェフカは海洋の自然保護区になっており,入江や島々が実に風光明媚だが,残念ながら霧がかかっている.ここらあたりは日本海の梅雨前線の影響があるのか,あるいは寒流(リマン海流)のせいなのか,霧になることが多く,夏の到来はウラジオストックやウスリースクよりもむしろ遅れるのだという.

 翌日はさらに南西へむかい,ハサンの街へむかった.ここはロシア,中国,北朝鮮の三国国境である.食糧難の甚だしい北朝鮮から,中国側へ国境を越えてくる人も多いと聞いていたので,それなりの緊張感を期待(?)したが,実におだやかな雰囲気であった.戦前は北朝鮮は日本領,中国は満州国(日本の傀儡政権)であったため,ここがロシアと日本の最前線であり,日本軍とロシア軍の武力衝突となった舞台のひとつである(張鼓峰[ハサン湖]事件,1938年).

左:三国国境.手前の林が豆満江の河畔林.奥の左手の山は北朝鮮,右手の山は中国の山.

右:手前の石が中国との国境の標で,むこう側の丘の上の建物は中国のもの.国境を監視する施設かもしれない.

 今回の調査地に選んだこのトマン川(豆満江)河口付近は,広大な湿地帯となっており,日本のキイロネクイハムシ(絶滅したと考えられる)に近縁な種類も記録されている(Hayashi and Shiyake, 2001: Bull. Osaka Mus. Nat. Hist. No. 55).オオルリハムシやヒメヒカゲ,フサヒゲルリカミキリなど,湿地特有の昆虫もたくさん見られるほか,オニシモツケにはハナノミもたくさん集っており,忙しいフィールドワークとなった.

 翌日は日本海の海岸へ出た.昨年の調査では大水で道が壊れていて,海岸へたどりつくことができなかったが,今回は浜辺に立つことができた.遠くには日本とを結ぶ貨物船の姿もある.この海のむこうがわに日本列島が横たわっていることを再度,実感することができた.

 海岸へはたくさんの後背湿地があるというので連れてきてもらったのであるが,ネクイハムシの調査にはやや遅めであり,霧も深くかかってきた.浜には錆び付いた難破船もあり,実に哀愁漂う風景である.

霧の日本海と錆び付いた難破船.浜辺にはエゾオグルマ Senecio pseudoarnica Less. が咲いている(中国,朝鮮,ウスリー,北海道,カムチャッカ,北米東岸に分布).


●ケドロバヤ・パジ再訪

 ハサン地区の三国国境付近のあとは,ケドロバヤパジ自然保護区を訪れた.昨年も訪れたから,何となく「帰ってきた」という感じさえする.ヒョウなどの動物が生息するほか,沿海州地方の植物の4分の1が生息するという,豊かな自然が保全された保護区である.季節が去年よりも約1カ月早いため,森のようすはまだ青々しい.

 この森を半日かけて歩き回った.とくに原始林のほうへ行ってみた.ケドロバヤ川にかかる丸太の一本橋をわたると,海側の下流から霧が漂い始める幻想的な風景に出会った.今にもヒョウが現れそうな感じだ.

 原始林には倒木も多く,樹皮下の甲虫類の採集も楽しい.しかし,道がいくつも分かれていて,迷わぬようにきちんと記憶しながら前へすすまねばならなかった.あっというまに半日の時間が過ぎてしまった.

霧のケドロバヤ川,ケドロバヤパジの山小屋(ここに宿泊した),スズガエル,イボタガ,ミヤマダイコクコガネ

 ケドロバヤ保護区の一部のガケレフの谷も,去年来た場所だ.デジタルカメラを水没させてしまった苦い思い出の場所でもある.お花畑もあって,調査対象のハナノミの他,ハナアブやカミキリムシの類もたくさん来ている.

ガケレフの谷,ハナアブの一種(ハチにそっくり),ハナカミキリの一種


●ウスリースク自然保護区

 ケドロバヤを後にして,北へ戻り,ラズドリナヤ川(中国名:スイフェン河)を渡って,さらに北へ向かった.ウスリースク自然保護区である.ここは落葉広葉樹林のケドロバヤとは異なり,針葉樹の混じる林となっている.ケドロバヤにはヒョウがすむと驚いていたが,ここには何とトラがすんでいるというから,驚きを通り越して,恐怖を感じる.ゲートには木彫りでトラが描かれている.まぁ,生息数は非常に少ないのだろうが.

ウスリースク自然保護区の入口看板(下にトラが描かれている) ウスリースク自然保護区の森のようす.チョウセンモミ,ハルニレ,オヒョウ,モンゴリナラなどが生える.北海道の山地のような雰囲気. フンメルカザリオサムシ(ここのは緑と赤が美しい)
コモンコムラサキ 日なたぼっこするマムシ 白い縞のある大きなヘビ

 「ウスリースクの保護区へいくと,いろんなヘビが見られるよ」と事前に言われていたが,行ってみて驚いたのには,あちこちにマムシがひなたぼっこをしているのである.小さな小屋の中には大きな無毒ヘビも蜷局(とぐろ)を巻いている.ヘビ嫌いの筆者には,背筋に冷たいものが走った.近くに泊まるところがなく,屋根のあるのはこの小さな小屋だけのようだが,ここで寝泊まりするぐらいなら,死んだ方がマシだ.

 ここではトラップをかけたりはしなかったが,フンメルカザリオサムシとアオカブリモドキが昼間に歩く姿も見られた.やはり彼らは昼行性らしい.昼間の数時間でもトラップを設置しておけば,たぶんいくらかは入るのではないだろうか? 去年トラップをかけたウスリースク郊外でも,トラップをかけに行った帰り際に,もうすでに何匹か入っていたのを経験している.

 沿海州の滞在は7泊8日だったが,天気にも比較的恵まれ,あっという間に過ぎてしまった.2002年の訪問は2回目ということもあり,昨年ほどの感激は少なかったかもしれない.しかし,専門のハナノミがたくさん採集できたなど,収穫も多く,満足できる遠征となった.成果は追々,論文の形で報告したいと考えている.(おわり)


ロシア極東関連の文献(私的基準による:日本語のもののみ)

淀江賢一郎(1996).ロシア沿海州のチョウと自然 .(本HPと強く関連.絶版で入手できないのが残念.筆者も未入手)

日本海学推進会議(編)(2001).日本海学の新世紀.角川書店.221pp.(日本海の成立,陸橋問題など,最新の研究成果も交えて記されている.)

A. コンドラトフ(著),金光不二夫・新堀友行(訳)(1994).ベーリング大陸の謎.現代教養文庫.263pp.(旧世界と新世界はまったく別世界ではなく,ベーリングでつながっていた.この夢の事実をナチュラルヒストリーの視点から綴ったロマンあふれる1冊.)

原 暉之 (1998).ウラジオストック物語.三省堂.324pp.(ロシア極東,とくにウラジオストック市の政治や人々を記したエッセイ.この街と日本人との関わりなども記されていて,読みごたえあり.)

J. フォーシス(著),森本和男(訳)(1998).シベリア先住民の歴史−ロシアの北方アジア植民地.彩流社.554pp.(分厚い.関心ある部分だけナナメ読み)

田中 水絵(1999). 奇妙な時間が流れる島−サハリン .凱風社.262pp.(当地の人々の素顔や様子が読みやすく紹介されたエッセイ.)

Y. シブネフ(2000).まだら豹の足跡を追って(ロシア極東・自然界シリーズ).プリアムールスキエ・ヴェドモスティ(Priamurskie Vedomosti)出版社(ハバロフスク).102pp.(ロシア極東のヒョウの生態を扱った日本むけの写真集,もちろん日本語.でもなぜか日本での入手は困難.)

井上 靖(1974).おろしあ国酔夢譚.文春文庫.382pp.(原作は全部は読んでないが,映画=緒方拳主演は見た.その元となったのが「北槎聞略」(桂川甫周,1798,岩波文庫).鎖国の日本人が見たロシアはどんなものだっただろうと想像するが,初めて訪問した私と,さほど差異はなかろう.とにかく,大黒屋光太夫は偉いとつくづく思う.)

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