プロフィール

嶺田 拓也

 ごくフツーなサラリーマン家庭に生まれる。神奈川県鎌倉市で産声をあげたあと、父の転勤で神奈川県内、愛知県そして千葉県内を転々。私の”里”原体験は幼少時の数年間過ごした愛知県稲沢市で近所のガキ大将に連れられてザリガニつりやとかげのしっぽ切りをした程度。あとは急激にベッドタウン化が進む首都圏内に移りトンボの姿を見かけることも少なくなる。しかし、小学校五年次の授業で当時早朝NHKで放映されていた「明るい農村」を取り入れたことから、”農業”に興味を抱き、毎朝かかさず早起きする「明るい農村」フリークとなってしまう(今ではいじめの対象に十分なりうる相当変わった少年だったが、周囲の暖かい見守りとなにより当時の担任の先生の理解と思いやりがこの少年の心を育んだのだ)。

 中学に入り、有吉佐和子著「複合汚染」と出会い、化学肥料や農薬を使わない農業

に漠然と憧れる。また「わら一本の革命」の福岡正信の思想にも触れ、人間と自然との関係について、また農業の在り方について強く考えるようになる。筑波大学農林学類に進学後は、人間の文化活動についても興味を示し、世界各地の”祭り”や民族芸能を演じたりもした。また仲間とともに畑一反とたんぼ五畝を借り、有機無農薬によるイネ・野菜づくりを目指すと同時に関東近円の有機農業家・自然農法家のもとへ援農に出かけ、現場における問題の所在を感じとる。そして環境問題や食品の安全性に触発され新規に就農した多くの人が、高い理想を掲げながら実際には自然からの収奪を第一義とする現実の中で苦しんでいることを知った。そこで”自然との共生”を掲げた農業を実践していく中で、もっともギャップとなっている”雑草”との付き合い方を考えていくことを決意し、我が国の雑草研究の草分け的存在である岡山大学資源生物科学研究所雑草研究室に進学することになる。そしてその頃、現愛媛大学の日鷹さんと出会い、その持論の農耕地生態系内の諸機能を活かしきった「粗放的でも集約的でもない農法」にまさに正鵠を射られる思いを抱く。以来、日鷹さんらとのグループと組んで、耕耘や代かきに生活史を適応させてきた水田雑草を耕起的撹乱を減少させることで発生を抑制し、かつレンゲ等の緑肥冬作物を作付けて地表面を被覆することによって遷移を調節する「不耕起草生マルチ水稲直播栽培」の研究に取り組んできた。一方、山野草でもなく作物でもないまさしく人里の植物群である”雑草”とは何ぞやとの思いを胸に、岡山大学の榎本敬先生らとともに北は北海道から南は沖縄に至る市街地、繁華街、そして田園地帯等の少しでも人気のある”人里”をうろつき、そこに生息している雑草?の採集を続けている。

 人参畑の人参は当然作物である。しかしキャベツ畑に生えてきた人参を雑草扱いする人は多い。また最近は”景観雑草”なるものが登場してきた一方で、レッドデータブックに記載されている”かつての”耕地雑草も少なくない。人間の諸活動の最も付近で生活し、そして全く人間本位の思惑で概念化される”雑草”。この”雑草”との折り合いをどうつけていくかを考えていくことは、人里の形態が急速に移り変わっていく中で「共生」のキーワードを解く数多くのヒントを私たちに与えてくれるのではないだろうか。 


プログラム一覧へ戻る 「里と生態学」案内へ

無断引用・転載を禁じます。

このページは著者から寄せられた原文をHTML化し、掲載したものです。
文責は著者に、掲載責任は佐久間大輔にあります。