「永続性を願うイエとムラの原理:里の環境社会学」的観点から

          滋賀県立琵琶湖博物館 総括学芸員 嘉田由紀子

     <生きかわり 死にかわりして 打つ田かな  村上鬼城>

 私はこの俳句が好きです。目の前にみる田んぼとそこで田をうつ人、しかしその後ろに目にみえない、家族と村落の社会学の本質を、たった17文字の中に凝縮しているように思えるからです。

 野生の生き物、人がうえた作物、そして田んぼ、森、水路、このような目にみえる(と思っている)物的環境の背景にどんな社会関係が隠されているのか、あるいは逆にどんな社会関係だったら、どんな物的環境をつくりだす傾向にあるのか、という物的環境と人間社会組織のかかわりを考えようというのが環境社会学のひとつのねらいです。

 里の社会関係をとらえる切り口は、個人、家族(いわゆるイエ)、村落(いわゆるムラ)、行政体、といくつかのレベルにわけられますが、今日はイエとムラのあり方と生態系とのかかわりについて、試論的に紹介させてもらいます。

 「日本のイエ、その原理は、永続である」と言ったのは日本民俗学の創始者といわれる柳田国男です。イエは、厳密な概念からいうと家族ではありません。家族は血縁共同体といいますが、イエは血縁共同体ではありません。イエは経営体なのです。家族員ではなく、イエの都合を重視する経営体です。そのような意味では会社に似ています。イエとは日本社会に特有な固有文化性をもった家族です。イエの原理は(1)家産があり(土地、家屋)、(2)一子による世代的継承をされ(長男子相続)(本分家関係)、(3)先祖祭祀をおこない(墓守)、神棚をもち、(4)生活(生産)経営体(家業)、という多面的な顔をもっています。

 一方、ムラも日本特有の文化的特色をおびています。それはイエの特色とわかちがたく結びついています。ムラの原理は(1)地域性と結ぶついていて(境界がはっきりとした領土をもつ、山、耕作地、屋敷、川・湖・海)、(2)成員は個人ではなくイエ単位であり、(3)産土神をもち(場合によっては共同墓)、(4)生産・生活の相互扶助組織であり、(5)法人資格をもつ団体であった(過去:後述)、という点です。

 学会でも論争はありますが、このようなムラとイエの社会組織が成立したのが、江戸時代と考えてよいでしょう。その後、ムラのあり方に大きな影響を与える最初の出来事が明治5年に始まる地租改正です。この折、土地の「官民区分」がなされました。そしてムラの土地(水面)の帰属を私有(民)か国有(公)かにわけることを法的に求められました。ふたつめは明治22年の「市制町村制」の施行です。この時、ほとんどのムラが大きな行政体に合併され、独自の法人資格を失いました。ムラがもっていた「入会山」や「神田」「漁場」「水利権」などの権利があやふやになりました(国有、行政村有、複数代表者名義、個人名義)。

 明治以降の日本の近代化の中では、土地や財産の私有化をすすめ、交換価値をたかめ、市場経済システムをつくる、というヨーロッパ近代をモデルとした「近代化」が一貫しておしすすめられてきました。江戸時代以来のムラ組織にもとづいた森林や漁場や水利権などの共同管理は、「封建的」「前近代的」と行政からも知識人からもマイナスのレッテルをはられ、それをぬぐいさるように、法律や行政手続きがきめられ、研究もなされてきました。それでも、多くのムラやイエでは、法律や行政指導に抵抗してもなおまだムラやイエを守ろうとしてきました。なぜでしょうか?「生活に必要」だったからと解釈できます。

 しかし、今から考えてみるとそのような地域性をもち、永続性を願うイエとムラの原理が、日本の水田や里山、漁場などの「持続的利用と管理」を目にみえないところで支えてきた社会的原理でもあるのです。しかし、その原理が今、特に昭和30年代以降働きにくくなっています。なぜでしょうか。「生活に必要」と当事者に思われなくなったからです。

 今開発途上国の森林管理では「Community Forestry」(地域社会林業)が、漁業管理では「Community-Based Management」が資源を持続的に管理する理想状態と判断され、政策がすすめられようとしています。日本でいう「入会」を新たにつくろうとしているのです。

 もし時間があれば、その具体的な資源の利用と管理の事例を余呉町の川並という地区とアフリカの事例を比較して紹介します。

 
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