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Argonauta 4: 28-37 (2001)


畠島実験地の位置(第2部)


大垣俊一

保全史

1.国費買取りまで 〜1960年代

 畠島の所有権は1920年代まで、のちに「白浜町」に発展解消される旧、瀬戸鉛山村にあり、京大実験所が白浜町臨海に設置される1922年(大正11年)の前年1921年に、和歌山市の紀州徳川家に寄贈された。しかしそのわずか2年後の1923年、紀陽銀行に所有権が移行し、さらに第二次大戦終了直前の1945年に和歌山県内の3個人が取得し、その状態が1966年まで続いていた3)。この間、島には特に建造物が作られることもなく、実験所関係者による研究、実習のための上陸も支障なく行われていた模様である。しかし1966年1月、神戸の大和観光が開発目的で所有権を取得し、6月には‘白浜ハワイアイランド’なる観光施設を建設する計画を明らかにしたことにより、島をめぐる情勢は俄かにあわただしさを増した3)。当時の地元新聞の記事には、次のようにある55)
 「夢の計画、着々実現へ ― 畠島開発やモノレールも: 田辺湾に浮かぶ二つの島のうち、白浜に近い畠島を「東洋のモナコ」化すればよいが... という夢は観光関係者の間で常に話題となっていたものである。その夢がいよいよ実現する計画が急速に進み、既に神戸の「大和観光」の手によって測量や調査も終り、設計書も出来上がっている。この計画は、まず一億数千万円を投じ、先づ坂田山から橋を架け、バスや自動車が自由に往来できるようにする。次に島全体の観光開発については、ホテルはもちろん、すべての娯楽設備、ヨット発着場など工事は三期に分けており、総工費は約十億円と見積られている。構想はハワイの娯楽設備を充分取り入れる計画であり、その名も“白浜ハワイアイランド”と名付けれられており白浜にフラダンスの本場を移そうというもので大和観光の重役陣も大いに張りきっていると伝えられ、今後の推移は大きく注目される。」
 開設当初から畠島を研究、教育活動の場としてきた京大実験所は、この計画にただちに反応して、畠島の環境保全のため、各方面に働きかけを始めた。実はこの時、畠島対岸の坂田地先の埋め立て計画が進行中であり、1965年以降、京大側はこれに歯止めをかけるべく活発な運動を行なっていた。理学部長、続いて京大総長も白浜町長、県知事宛に「実験所周辺の環境保全」について要望書を送り56, 57)、また、理学部長と実験所関係者が知事を訪れて同趣旨の要望を行なった58)。坂田の埋め立ては京大側の反対にもかかわらず、66年9月に着工されたが、こうした活動は畠島問題にも引き継がれた。66年6月に、全国臨海臨湖実験所長会議は知事宛に畠島周辺の保護対策を要望、次いで同年8月実験所長がこの問題をめぐり、知事を訪れて面談した。これを受けて当時の小野和歌山県知事は、「海岸美が開発によってどんどん破壊されて行くのは残念なことだ。この辺で保全策を考えないと貴重な資源がなくなってしまう」と、畠島開発に消極的な態度を見せ、県の担当課も、開発申請が出されれば厳しくチェックする方針を示した59)。県側のこうした姿勢の背景には、当時の全国的な環境保護の機運や、坂田埋め立てで、たび重なる京大側の働きかけを無視する結果になったことへの配慮があったと思われる。一連の状況を受けて、実験所は1966年9月に大和観光との直接交渉に臨み、11月に至って、業者側は説得に応じて畠島開発の断念を決定した3)。その後、大和観光は投じた資金を回収するため、国費による畠島の買取りを求めた。京大側は一億円の予算を要求したが5510万円しか認められず、同社は一億二千万円を主張して交渉は難航、しかし再び大和観光が譲歩して、京大予算の額で68年12月に交渉は妥結した60)。この間、地元新聞紙上では、京大による畠島買取りをめぐり賛否両論が表明されていた。まず、買取りに好意的なものとしては61)
「生物の宝庫、畠島保存を喜ぶ: 海洋生物の宝庫と言われる南紀白浜沖の畠島は、神戸の観光会社に買収されて観光地化で死滅のピンチにさらされていたが、瀬戸臨海実験所を持つ京都大学が島ぐるみ買取る方針を決め文部省と交渉することになった。約一億円でこの島を買い上げ、<観光の島>にしようと計画しながら、生物の宝庫だと知って中止した観光会社も立派だが、島ぐるみ一億円で買い取り観光俗化を防ごうとする京大もまた立派なものである...」
 これに対し、ある地元観光業者は畠島買取りに反対し、次のように激しい口調で、京大実験所のあり方そのものをも批判した62)
「とっておきの畠島を京大の手に渡すな ― 二万町民の奮起を!! 白浜は今、将来必ずドル箱になる畠島を、京大の臨海実験所に取り上げられようとしている。たとえ京大が買収しても地元の協力なくして、実験の成果を挙げ得るとはよもや思ってはおるまい... 畠島を、このままむざむざ臨海実験所に渡してしまったら、我々の貴重な観光圏を、実験の名のもとに凍結されてしまうことになる。地元白浜には、ひとことの説明もなく、諒解も得ないままで—。そもそも、臨海実験所は開設以来五十年、県および地元の特別の支援を受けながらあの膨大な一等地に幡居して、今日まで学術的に何をしたか、観光的にどれほど寄与したといえるか、民間企業だったら、あんな独善孤高経営では、とっくに消えてなくなっているはずである。もしそうだとすれば(=実験所が番所崎から消えていれば—筆者注)その跡には既にしてすばらしい観光施設ができ、白浜の声価を高めつつ、客誘致の尖兵になって活動しているであろうことは、誰にでもすぐわかることである。つまり臨海実験所は、もはや白浜の場ふさぎになっており、発展をそれだけおくらしたともいえそうである... それなのに、瀬戸だけで足れりとせずに、また新しく白浜の数少ない観光ポイント畠島を、その夢の場にして我々の税金を使おうとしているのである。かくの如き不合理が、四苦八苦にあえいでいる白浜の観光業界を尻目に、したり顔でまかり通られては、二万町民の立つ瀬がなくなる... 」
 ともあれ畠島は買い取られた。1969年2月、京都大学は畠島の実験地化を公示し、京大実験所が管理する国有地としての、今日に至るまでの島の位置づけが確定したのである。

2.1970年代

 畠島が京大実験地となった直後の1969年2月、島の南岸プラットフォームで生物相を記録する作業が、時岡助教授(当時)を中心に始まった。一方京大実験所は4月に入り、畠島に「京大実験地」の標識を設置すると共に、白浜町内各戸に「畠島海岸生物の保護についてのお願い」のビラを配布し、海の生物の「種場(タネバ = 稚仔供給源)」として畠島の海岸環境を保全するよう、協力を求めた63)。さらに畠島周辺を漁業権水域とする白浜漁業協同組合と協議し、1971年7月には同漁協との間に、以下のような「とりきめ」を結んだ。

とりきめ: 明日の沿岸漁業を維持するために、白浜漁業協同組合は畠島とそれに付属する磯および浜を海産生物全般の種場として保護することになりました。そして保護の第一段階として、以後畠島とその付属磯浜においては、当組合員による定められた場所における限られた種類以外の採捕は一切できないことになりました。また京都大学瀬戸臨海実験所は学術研究および教育の立場から組合に協力して畠島と付属磯浜の保護をさらに徹底することになりました。つきましては

1.畠島の附属磯浜で漁業活動をしたい方は必ず組合に届け出てください。
2.畠島に上陸したい方は必ず京都大学に届け出て許可をもらってください。
3.畠島およびその附属磯浜において生物の採集、石を起こすこと、砂浜の泥を掘ることは一切禁止します。
4.畠島及び附属磯浜ではキャンプ、焚火は一切禁止します。
5.磯釣りの場合には撒餌、撒土、釣り上げた魚の血や内臓などで付近を汚さぬこと。
6.各自の安全及び付着生物保護のために畠島及び附属磯浜に上陸する場合は、必ず軟らかい底の履物をつけてください。
7.空瓶、空缶、その他の容器、包紙などはすべて持ち帰ること。
 の諸項を厳守して保護に協力してくださるようお願いします。

昭和46年7月 白浜漁業協同組合 京大瀬戸臨海実験所

 これを受けて実験所は、島内各所に設置した立て看板において、世界でも類を見ない「海岸生物一世紀調査」の実施を宣言した。看板の記載内容は、先の「とりきめ」をふまえた、次のようなものであった。

注意 この畠島実験地では瀬戸臨海実験所が「海岸生物一世紀調査」を始めとする海岸生物の調査研究を行っております。また周辺の磯浜を種場として保護するため、白浜漁業協同組合は、えむし、みのじがい、いそもの、あさり、とこぶし、うに、海草など海岸生物の採捕を自粛、調整しております。下記のことを厳守してください。記— 1.瀬戸臨海実験所並びに白浜漁業協同組合に申し出て上陸の許可を得ること。2.島や海岸の動植物を採集しないこと。3.岩、石を動かして島や海岸を荒らさないこと。4.火気を用いないこと。5.ごみを持ち帰ること。 京都大学理学部附属瀬戸臨海実験所 白浜漁業協同組合

 ただし、「一世紀調査」の手始めというべき1969年の生物相記録は、本島南岸部を終了した時点で、時岡助教授(当時)の健康上の理由から中断され、同体裁の再度の調査は1983-4年を待つこととなる53)。一方、買取り以前の1963年に小丸島西に永久コドラートが設定され、寒波など気海象変動の影響の検討を主眼として、ウニ類の密度調査が始まっていたが、こちらはこの間も年1回のペースで継続された。

 当時の京大実験所は、畠島の保護を徹底するため、島そのものに加え、周辺海域の環境保全をめざして活動していた。坂田埋立てへの反対運動については既に触れたが、この他1966年には、海中公園設置のための予備調査である「和歌山県海中公園学術調査」を中心となって行い、田辺湾を海中公園の重要候補地として推薦した65)。これは結局実現せず、代って串本に海中公園が設置された。その後実験所は、環境庁が「自然環境保全地域(海中特別地区)」を企画したのに応じて、神島から番所崎にかけての田辺湾南岸をその指定地とするべく田辺湾南岸の生物相調査を行い66)、こちらについては地元漁協等との長期の交渉を経て、県自然保護課が最終案をまとめるところまで話が進んだ67)。しかし時岡所長の退官を契機に情勢は変わり、特別地区の構想は、実験所として積極的な働きが続けられることのないまま立ち消えとなった。

 やや私事にわたるが、筆者は1979年から大学院生として京大実験所に在籍し、その初期この特別地区についての話し合いに参加した記憶がある。このとき既に保護区の候補範囲は畠島と番所崎に限定されており、所内の雰囲気は消極的で、私を含め大学院生は、研究用のサンプリングが制限されるのは困ると、そのことのみを心配していた。1977-79年には、実験所の一部教官、院生が畠島でほぼ毎月海岸生物の個体群調査を行ったが、これは一世紀調査の継続というよりも、教官と院生の共同作業ということに重点があった感がある。筆者もその末期に同行したが、畠島の位置づけなどの説明はなく、しかも当時の田辺湾奥は水質が悪化して海岸生物相も貧困に見えたので、なぜわざわざ船で畠島まで行って調査をするのかわからないというのが実感であった。

 海岸生物の個体群調査は1979年に終了し、また小丸島西のウニ調査も、1977年を最後に15年続いた調査が中断した。実験所メンバーによる畠島の生物調査としては、1977年から始まった、畠島周辺の魚類相調査を残すのみとなった。

3.1980年代

 各方面を巻き込む運動の末、畠島の国費買取りが成って10年余を経た1980年代初頭、買取り当時の熱気はすでに冷め、京大実験所内の雰囲気は、畠島に対してはほとんど無関心というに等しかった。しかし1983年以降いくつかの条件が重なって、再び畠島は実験所内外の関心を集めることになる。

 まず1982年、所外研究者らにより小丸島西ウニ調査が5年ぶりに復活した。1983年に入り、その継続を要請された実験所の大学院生が、文献、資料を検索して畠島調査の意義と必要性を認め、院生、教官にウニ類を含む畠島の生物相調査を呼びかけた。その結果、同年5月に特定種マクロベントスの全島分布調査が行われ30)、ウニ密度調査もこの年から毎年続けられるようになった。また12月には実験所ゼミにおいて、院生により、畠島の現状に対する問題提起が行われた68)。京大実験所には、畠島で行なわれてきた各大学の実習磯観察の記録が、1949年分以降保存されており、この掘り起こしの作業も進められた19)。また、1984年には買取り直後の1969年とほぼ同じデザインにより、畠島南岸の全マクロベントスを対象とする分布調査が15年ぶりに実施された53)。これらの作業や調査にかかわった教官、院生らは、さらに実験所としてのモニタリングの体制を組むよう求めたが、教官会議は、既に実験所メンバーが行なっているので必要ないとし、実習時の磯観察の記録を今後、資料として保管するようにとの要請も、記録に信頼性がないとしてこれを退けた。

 一方、こうした動きと平行して、1984年初めには、畠島をめぐり実験所内外を揺るがす事件が発生した。このいわゆる「畠島潮干狩り事件」は、白浜町観光協会が京大実験所に対し「観光キャンペーンの一環として畠島で観光客による潮干狩りを実施したいので、上陸を許可してほしい」と申し入れたことに端を発する。これに対し、当時の実験所原田所長はいったん回答を保留したが、所内向けには条件付きで認めることもやむなしとの姿勢を示していた。しかし所内の一部には、こうした企画は実験地としての島の性格に反する、過去に実験所が進めてきた海岸保全の方針に逆行、これまでにも研究、教育目的とかけはなれた上陸申請は断っており、今回だけ認めるのは筋が通らない、などの根強い反対意見があった。ところで、畠島には国の天然記念物に指定されている「泥版岩岩脈」がある(「畠島実験地の位置(第1部)」参照)。2月はじめ、この計画を知った文化庁が、突然、潮干狩りをすると、この泥版岩脈を傷つける恐れがあるとして、白浜町に対して中止を要請してきた。これは全国紙の記事になったが、そこでは畠島の特殊な位置づけを紹介するとともに、一連の経過について、このような催しは地権者である京大と、漁業権者の白浜漁協の許可を得て進めなければならないところ、白浜町観光協会は両者に無断で計画を決めた、と批判的に説明していた。各当事者の発言は次のように紹介されている69)

原田英司 京大実験所長「町や観光協会にはお世話になっているので、潮干狩り計画には協力できればと思っていた。しかし観光客の上陸を認めると問題もあるので、再検討したい。」
百合辰雄 白浜町観光協会理事「大学などに相談するのを忘れてしまった。ツアーの募集も進み、既に申込まれたお客さんに迷惑をかけられないので今回は黙認してもらうより方法はない。自然を荒らさないよう十分注意する。」
桜井信夫 文化庁文化財調査官「畠島の天然記念物の管理は白浜町に任せている。潮干狩りなんてとんでもない話だ。シャベルで岩脈が壊されたら困るのですぐやめてもらいます。」

 潮干狩りで泥板岩が破壊されるという文化庁の主張に、実際の畠島を知る者は唖然としたが、新聞記事と文化庁の指示の効果は大きく、各方面なだれを打って上陸中止、不許可に傾いた。記事の出た翌日には、再度実験所長から所内に向けて説明があり、観光協会が申請を取り下げ、実験所も認める余地がないと意思表示したこと、理学部からは「畠島買取りの経緯とかけ離れたことが行われ、公になる事態は避けるべき」との指摘があったことが紹介された。記事の内容については、実験所が積極的に荷担したと受け取られる表現について抗議した、と述べた。また、今後漁協と畠島の管理体制について話し合う用意があり、場合によっては職員に、見回りなどで負担をお願いするかもしれない、またこの問題を考えるための基礎として畠島上陸者の実態調査を行う、と表明した。

 上陸者調査は、3-4月の大潮周辺、計24日にわたって行われた。当時の資料に基づき、その結果をかいつまんで紹介すると以下のようである70)

 期間中、1日当りの上陸者(=海岸部分を含めた人数。陸上部分とは限らず)は平均22人、最高で205人/令構成は老、中年層が全体の8割/上陸者住所は白浜町内が最も多く(8割は対岸の綱不知)、次いで田辺市。両者合せて9割近い。県外からも若干あり/天候別上陸者数は晴天弱風時が最も多く、曇り、雨の時は少ない。晴天であっても強風時は上陸者なし/船舶数は1日平均4-5隻、最高16隻(渡船業者3)/代表的な採集物はアサリが8割以上、ヒジキ1割、ほか磯もの(主として貝類)。

 採集物のアサリはその後ほとんど見られなくなったため、現在の対象物はヒジキの他、カリガネエガイなど磯ものが中心であろう。なお、畠島でしばしば見かけるムラサキウニの採集が、この中には含まれていない。また、晴れて風の穏やかな日に上陸者が集中し、曇りや強風時に急減することは、畠島での採捕が、生活のための漁業活動というより、むしろレクリエーション的要素が強いことを示している。

 またこの時期、4月には畠島問題を中心として、一部教官、職員に院生を加えた話し合いも持たれた(参加者は教官2、職員5、院生1)。当時の所内の畠島に対する見方をよく伝えていると思われるので、出された意見の概略を紹介する。

職A「畠島の海岸保護については、以前、綱不知の有志が京大に協力して見廻りをしていたこともあるが、京大自身が不熱心になったのでやらなくなった。」職B「上陸申請も、2年前くらいまで出ていたが、実験所があまり言わないので出さなくなった。出せばいろいろ言われるので、出さないほうに傾く。」職A「潮干狩り事件についての所長談話。京大はあれだけうるさく上陸するなと言っておいて、あの弱腰は何だという地元の声。」「以前は浜そうじや草刈りに畠島に行っていた。今、浜そうじは渡船業者がしている。」職C「畠島の管理方針は二つに一つ。全く放棄するか、かなりのエネルギーをつぎ込んで維持するかで、中間はないだろう。」院「上陸禁止を徹底するには見廻り、見張りがいるが。」職B「秋以降は実習などもなくなり、畠島には全く行かなくなる。船の維持の面からも月にいっぺんくらい行ったらよい。」職A「交代で泊まり込みもあり得る。教官、職員に院生を加えた体制作り。院生はここの一員であるという意識はあるか。」院「私はやってもよいが、職業として所に勤める教官、技官と、学生である院生には立場の違いがある。」「潮間帯採捕は止められるのか。」職B「それをしようとすれば、漁業権の買い上げか、漁協への禁止要請。後者なら畠島は入り会いだから、新庄以南の全漁協の同意がいる。」院「かつての‘とりきめ’の効力は」職B「あれも正式にはそれら全漁協の同意がいる。白浜漁協とだけなので、効力は徹底しない。」院「研究する者の立場から言うと、まわりの海がきれいでないと、磯も荒れていてやる気がしない。」職D「もう畠島は荒れて生物も少なくなった。その状態で、宝庫とか種場と言っても、漁協に対する説得力はあまりないのではないか。」職C「まず畠島の管理を徹底して、周辺海域の問題に進むべき」職E「実験所が畠島を利用していなければ、大蔵省に取り上げられる可能性もないではない。使っていないといいうたぐいの記事がほんの小さくでも出ると目をつけられる。マスコミなどを通じて研究活動がなされていることが一般に伝わっていることが望ましい。」

 話合いの中に、実験所が畠島を利用していないと云々、という発言があるが、後日このことを思い出させるようなできごとを、筆者(大垣)は経験した。潮干狩り事件の数ヶ月後、行政監察庁から実験所事務を通じて問い合わせがあり、京大実験所が畠島で行っている研究活動の内容を問うてきた。当時環境庁が行なっていた「緑の国勢調査」に協力しての資料集め、ということだったが、そのような目的には環境庁が直接働きかけることを見聞きしていたので、やや奇異の感を抱いたのを覚えている。

 一方、潮干狩り事件後の集会で所長が表明した、白浜漁協との協議については、所内外の畠島への関心が高まった折から好機と見られたが、実際に協議が行われた形跡はない。上陸者調査のその後についても、結果を受けてその後の具体的方針が示されるなどのことはなかった。研究面でも、畠島調査の中心となった院生、教官らはこののち次第に実験所を去り、1980年代を通じて全島規模の調査は行われなかった。1977年以来の畠島周辺魚類相調査も1986年で打ち切られ、小丸島西ウニ調査のみが、細々と継続されることとなる。管理面でも、1987年を最後に畠島の浜そうじは行なわれなくなり、実験所分室周辺の草刈りのみが、年一度行なわれる程度に縮小された。

4.1990年代

 1990年代に入ると、田辺湾の水質に改善が見られ、一時貧困化した畠島の生物相も復活の兆しを見せてきた。これを受けて1883-84年の調査の主体となった実験所OBに、現教官、大阪の自然史研究グループを加えて、1993年に全島特定種マクロベントスと南岸動物相の調査が行われた。この枠組みの調査は5年おきの反復を企図して1998年にも行われ、1969、1983-84の調査と合わせ、長期的な変動データが蓄積された。小丸島西ウニ調査は1993年で30年を越え、さらに継続された。

 一方、1995年に、再び畠島が地元新聞の記事になる事件があった71)。この年5月に、田辺市のある町内会が畠島での潮干狩りを計画し、各戸にビラを配布した。そこには持参物として貝拾いの道具、釣り道具を上げ、「当時は大潮のためたくさんの貝が拾えるものと期待しております」等と書かれていた。しかし町内会のメンバーから、「自然保護の立場から畠島は避けるべき」との意見があり、この計画は中止された。記事中に各当事者の見解が紹介されている。

京大実験所(原田英司所長) 生物が豊富な島でもたくさんの人が乱獲すると絶滅してしまう。今後、島への上陸はなるべく遠慮してほしい。
白浜漁協(津多徳夫組合長) 島は京大の管理下にあって研究を続けているし、許可を受けていない人が貝や海草を取ることには問題がある。
白浜町民 畠島は30年前の状態とまでは言わないが、水の浄化によるものか、最近アコヤガイやシリタカ、ウマヅメなどの貝が増えている。こういう時だけに島をみんなで守る意識が大事だ。

 しかしこの間、研究地としての畠島の風化は着実に進んだ。「一世紀調査」「京大実験地」「島内立ち入り禁止」など、各所にあったポール、看板は次々に朽ちて倒れ、のち撤去され、1996年の原田所長の退官を経て1998年頃には、島内に畠島が京大実験地であることを明示する標識は一本も存在しないという状態になった。かつては研究者が調査のため上陸すると、採捕の人々は、やや落ち着きなく様子をうかがうようなそぶり見せたが、この頃になると、実験所分室の横を通り抜けてきた上陸者が、筆者らに「調査ですか」と気軽に声をかけて通り過ぎる。その横には、表面がはげてほとんど読めなくなった「島内立ち入り禁止」の看板が、生い茂った草むらに埋もれて見え隠れしているという具合である。このころ地元の書店に積まれた釣りガイドには、畠島が航空写真と共に次のように紹介されていた72)。

畠ヶ島: ファミリーフィッシングに最適な安全な磯。砂浜が多く潮干狩りも楽しめる。投げ釣り、フカセ釣り、籠釣りなど様々な釣りができるのもうれしい。西側は浅くて釣りにならない。

 ここには、島に渡るための渡船業者の紹介はあるが、上陸に京大実験所の許可が必要であることは書いていない。その後、実験所長の交代に伴い、看板については2000年に至って再設置され、現在に至っている。



 畠島の保全史をめぐり、ここまで事実経過を辿る形で述べて来たが、1980年代以降については、筆者はこの問題について部分的に当事者でもあった。そこでその立場から以下、私見を交えて総括したい。1960年代の買取り前後から現在までの流れをふり返ると、1970年代末を境に、畠島をめぐる状況が転回したことに改めて気づく。1977年の時岡所長退官までは、島の買取りを中心になって進めた同元所長の働きかけにより、海岸部分の保全に制度的裏づけを得るための努力が続けられていた。しかし1980年代以降、実験所内外の畠島に対する意識は薄れて行き、当時の原田所長の姿勢もまた、畠島に関しては消極、後退、放置と言うしかないものだった。潮干狩り事件の直後はやや積極的な姿勢を見せたものの、すぐまたもとに戻るという経過をたどった。同所長は、時岡所長時代にあと一歩のところまで行った特別地域の働きかけを引き継がず、実験所としてモニタリングも実施せず、失われる島内の看板も更新せず、その結果として1990年代末には実験所の標識がすべて失われるという事態を招いた。このことは実験所による畠島の管理放棄を意味し、そのような状態が数年間継続しながら、上部行政機関等による介入を招かなかったことは、むしろ不思議であったとさえ言える。

 1984年の畠島潮干狩り事件に際し、ある実験所職員が「畠島に対する所の方針は、完全放棄か、エネルギーを集約しての維持のどちらかで中間はない」と述べた。しかし筆者は必ずしもそのような二者択一とは思わず、陸上部の管理と海岸部のモニタリングを行えば、実験所としての名分は立つのではないかと考えていた。畠島の管理については、今は部外者である筆者のとやかく言うことではないが、島を利用してきた研究者の立場から言えば、畠島の陸上部が研究用に確保されていることは、ただそれだけで海岸生物の研究上、大きなメリットのあることである。そのことを理解するには、かつて構想されたような‘白浜ハワイアイランド’のような娯楽施設が、延長数百mの島に覆いかぶさった様を想像すれば足りる。工事で海岸部が破壊され、「船の発着場」などの建造物が作られ、上陸は不自由になるかもしれず、今以上に人が入って磯は荒れ、汚水が流れ、研究どころではなくなることも考えられる。島の買い上げがこうした事態を防いだのであって、そのおかげをもって、筆者らの長期変動調査は今日に至るまで続行可能となっている。

 そうではあるが、しかし畠島が買取られたのは、陸上部分を目的としてのことではなく、周辺海洋生物の研究を円滑にするためであった。とすれば、陸上部の確保を土台として、さらに禁漁区化、保護区化など、海岸部分の保全が目指されるのが自然な流れと思える。近年、海岸、沿岸の生物に対する人による採捕の影響が注目され、多くの研究が行われている64)。畠島においても、採捕は必ず何らかの影響を海岸生物に与えているはずである。一例を挙げれば、小丸島西のウニ調査でムラサキウニの密度が急激に低下した年があるが、これは食用採捕の影響によると、当時の報告で推測されている73)。また、いわゆる磯ものといわれる食用の貝類は、増えたと見えると、盛んな採集ですぐに減少し、転石帯の石はくり返し起こされて、そのような種類、場所を対象に研究する気にはならないというのが実感である。

 畠島で1960年代から行われてきた海岸生物の長期変動調査は、当初は寒波など、気、海象変動の影響を意識して進められたが、70-80年代、田辺湾の富栄養化の進行により、水質もまた検討項目に加わってきた。単純化して言えば、ある種が南方性種であると同時に貧栄養性種でもあるといった場合、それが変化したのは温度条件によるのか、それとも栄養条件によるのか。どちらにどれほどの比重があるのか。一方を一定とみなせるなら他方だけ考えればよいが、両方顕著に変動すればそうはいかない。つまり検討項目が増えれば単変量解析は通用しにくく、個々の種の栄養条件要求などをinputした上、重回帰など多変量解析を用いることになる。より多くの情報が必要となり、調査デザインや解析は複雑化して結論はあいまいになる74)。ここにさらに、定量化の難しい採捕の影響が加わることは、研究の質を低下させかねない深刻な問題といえる。今さら30年続いた調査の枠組みを変更することはできないが、今後場合によっては、要因を個別に検討するための補充調査などが必要になるかもしれない。

 海岸生態学の見地からする保護区の必要性とは、突発的不確定要素を少しでも減らし、精度の高い結果を得ようとする研究者サイドの要請に他ならない。南アフリカにはDwesaをはじめ4つのreserveが、延長数百キロの海岸線に設置され、アメリカ、フロリダにはEverglades National Park内に広大な保護水面が確保され、それらのフィールドから着々と成果が生み出されつつある64)。実は京大畠島実験地は、その海外の動きを、さらに10年先取りする画期的な試みだった。しかしその後、島が辿った歴史は、買取り当初の高い理想と先見性にひきかえ、みじめなものであったと言わざるを得ない。南アフリカDwesa Reserveは延長20km、フロリダEvergladesの保護水面1150 km2。我々はわずか500mの畠島をすら、保護区として持つことはできないのだろうか。日本においても近年、千葉大小湊、琉球大瀬底などの研究所の周辺に、小規模ながら比較的厳密な保護区が設定されつつある。こうした周囲の情勢に加え、田辺湾の水質が改善して畠島に豊富な海岸生物相が復活しつつあること、また既に相当量の長期変動データが蓄積されていることなど、畠島海岸部の保護区化に向けた環境は、次第に整いつつあるかに見える。

 本稿では、主として1960年代以降の畠島の研究、保全史を振り返ったが、21世紀を迎え、今後この島はどうなって行くだろうか。畠島の研究地としての将来は、日本の海岸生態学、また海洋生物学の方向性を占う一つの指標として、注目されるところである。

第2部 引用文献

 ※番号は第1部(Argonauta 3: 30-37)からの継続。1)〜54)は第1部文献欄を参照。

55) 白浜新聞 1966年1月23日
56) 紀伊民報 1965年11月15日
57) 朝日新聞(和歌山版)1965年12月14日
58) 朝日新聞 1966年6月10日
59) 読売新聞(和歌山版)1966年8月13日
60) 朝日新聞 1968年11月2日
61) 夕刊和歌山時事 1968年8月8日
62) 白浜新聞 1968年8月29日
63) 紀伊民報 1969年4月19日
64) 大垣俊一 2001 総説 海岸生物に対する人間活動の影響 Argonauta 4: 3-18
65) 日本自然保護協会1966 和歌山県海中公園学術調査報告. 日本自然保護協会調査報告第27号
66) 京大理学部附属瀬戸臨海実験所 1975 自然環境保全地域(海中特別地区)候補地学術調査報告書
67) 国立大学臨海臨湖実験所長会議 1978 臨海・臨湖実験所周辺の生物相及び主要実験生物に関する研究(昭和50-52年度文部省科学研究費補助金総合研究A研究成果報告)
68) 大垣俊一 1983 これでいいのか畠島. 京大瀬戸臨海実験所ゼミ資料(1983.12.13)
69) 朝日新聞 1984年2月2日
70) 京大瀬戸臨海実験所 1984 畠島利用者調査(所内配布資料)
71) 紀伊民報 1995年5月11日
72) 京都新聞社 1997 空から見たポイント、南紀の海釣り
73) Imafuku M & Imaoka T 1983 Composition of the fixed sea urchin colony on Hatakejima Island, 1977 and 1982. Publ. Seto. Mar. Biol. Lab. 28: 445-446
74) 大垣俊一 1999 群集組成の多変量解析. Argonauta 1: 15-26


「畠島実験地の位置(第1部)」大垣俊一 (2000) Argonauta 3: 30-37.

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