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Argonauta 4: 1-2 (2001)


巻頭言 シラスを呼ぶ洪水


 見渡す限り砂浜の続く高知海岸の、沖合で行われる土佐のシラス漁の眺めは壮観である。海岸近くの小高い丘の上から眺めると、逆光にきらめく海面に十数統のバッチ網漁船が展開し、二艘ずつ並んで網を引きながら、ゆっくりと思い思いの方向に移動して行く。時折り波を立てて戻ってくる高速の小船は、獲れたばかりのシラスを港に運ぶ伝馬船であろうか—。

 以前、あるきっかけから土佐湾のシラス漁について調べたことがある。その時私は、沿岸部でのシラスの棲息状態のイメージをつかむために、多くの漁師の話を聞いた。彼らはその本来の興味のありようから、いつ頃、どこで一番たくさんシラスがとれる、という形で多くを語る。その話は地域によって、また人によって少しずつ異なって、なかなか統一した理解に至りそうもなかったが、しかし漁師たちが一致して語ることもいくつかあった。

 その中で私が特に興味を引かれたのは、「大きな川の洪水がシラスを呼ぶ」という話である。洪水がシラスを呼ぶとは、具体的には大雨が降って川から大量の水が押し出した数日後に、シラスの大量の漁獲があることを意味している。土佐のシラス漁は岸から沖合数キロまでが操業範囲で、シラスはこの中に群れをなして入って漁獲が始まり、これを取り尽くすかあるいはシラスが沖に去るまで漁は続く。これがくり返されるわけだが、この接岸移動のタイミングとして、大きな川の洪水はほとんど百発百中の成果を与えるというのである。このことを、各地の漁師は一致して語った。

 シラスはイワシ類の孵化後間もない稚魚であって、遊泳能力はほとんどないと言われている。このシラスが、産卵場とされる沖合十数キロの海域から接岸して来るについては何か特別なメカニズムを考える必要がありそうに思える。河口付近では一般に、表層では沖向き、低層では岸向きの流れが発達するが、洪水によってこれが強められ沖合に及べば、シラスは低層に止まることによって労せずして河口に寄って行くことができるだろう。こうしたことからはじめて、この問題にはいろいろな可能性が考えられるのだが、しかしそういった議論に踏み込む前に確かめておかねばならないことがある。それは、「本当に洪水があると漁獲は高まるか」という問題である。漁師の言うことを鵜呑みにするならこうしたことを確かめる必要はないが、研究者として自らの地歩を固めて物を言おうとすれば、この検討は避けて通れない。私は高知海岸の4つの大河川河口部漁協の漁獲統計を調べ、建設省の河川流量統計をこれに対応させ、そして意外な事実を知った。

 それは予想に反して、洪水が必ずしも大量漁獲をもたらしていない、ということである。河川流量が大きくても、その後のシラス漁獲が年平均を上回らない例が約4割もあり、平均すると洪水後の漁獲は、年平均値に対して15%増程度にすぎない。「洪水」と判断するレベルを様々に変えても、この傾向は基本的に同じである。そこで漁師に対して、「水が出ても必ず漁獲が多いとは限りませんね」と念を押すと、「いや、そんなことはない。必ずごっつい漁獲がある」という返事が返ってくる。どうなっているのか。

 一つには、漁師が「洪水」をどう判断しているかが問題である。漁師は直接に川の流量を測るわけではないから、仮に水のにごりや沿岸部に降った雨で判断しているとすると、流量統計との間で不一致が出ることもあり得る。しかし、もっと別の種類の理由があるような気が、当時の私はした。それはたとえばこういうことである。人は固定観念ができると、それに当てはまる事例を強く記憶する傾向がある。私が学生のころ、夜遅くアルバイトから自転車をこいで返る時、必ずといってよいほど止められる信号があった。なんだまたか...と思いながら、ある時ふと、実際に何割くらい止められるのか数えてみようと思い立った。そこで記録し始めたのだが、7 - 8割、という当初の予想に反し、せいぜい5割程度であることがわかって驚いた経験がある。シラスと洪水という結びつけができ、それに当てはまる例のみが「多穫」という印象的なできごとと結びついて強く記憶されたところから「必ず」という表現が生まれたと考えられないだろうか。雨は降っても漁獲が少なければ、水の出方が少なかったのだろうと遡って判断するようなことがあるとすれば、「水が出たからシラスが取れる」のは必然となる。

 だがいずれにせよ、洪水→大漁の100%の結びつけの中からは、次のステップは生まれにくい。洪水があってもシラスが取れないことがある。その事実に基づいて、シラスを呼ぶ洪水、呼ばない洪水とは何かという問題意識が芽生えてくる。もしかすると土佐湾のような南に開いた湾では、低気圧通過に伴う強い南風によって、シラスが岸に吹き寄せられているのではないか。この場合は先の仮説とは逆に、表層に岸向きの流れが生じ、シラスは浮上してこれに乗るという考え方になる。低気圧通過時にはしばしば大雨が降るが、この考えが正しいとすると、洪水は結果的に多穫と一致しているにすぎない。そして事実、西に開口する紀州田辺湾では、会津川の洪水はシラスを呼ばない。むしろ強い西風が吹いた時にシラスの大量の漁獲のあることを、田辺磯間の漁師たちは語るのである。

 研究者は、自らデータを取ると同時に、漁師やその生物に詳しい人々の話も聞きながら、持てる知識を動員して、複雑な自然現象の中に一本の論理の糸を通して行こうとする。その時にはただ相手の話を正確に聞くだけでなく、話を語る人々や自分自身を含め、人間の物の見方や感じ方はどういうものかということの洞察も必要になるだろう。かくして初めて我々は、漁師の長年の経験とそれに基づく直感に対抗して、かろうじて自らの存在価値を主張することができる— と、そのころの私はいささか気負いぎみに考えていたのだった。海の自然や漁師の話といったものを、科学の枠に切り取ってしか見られないことは一つの貧困に違いないが、枠をはめることによってのみ見えくるものもあると信ずる点においては、今も変わらない。

 あれから20年が過ぎ、当時話を聞かせてくれた漁師たちとはそれ以来会うこともない。未熟な私に海のことを教えてくれた老漁師たちの、穏やかな笑顔がなつかしい。

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