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Argonauta 3: 12-18 (2000)


書評 'Snow on cholera' - 疫学の原点


大垣俊一

 表題の'Snow on cholera'は、「コレラの上の雪」という意味にあらず、Snowは人名で、17世紀イギリスの医学者のこと。choleraはもちろん伝染病のコレラである。したがって表題は「コレラについてのスノウの研究」ないし「スノウとコレラ」とでも訳せるだろう。今回紹介する'Snow on cholera'は、伝染病に初めて組織的フィールド調査で取り組んだJohn Snowの著作を収めた本で、公衆衛生学の分野で疫学の原点と位置づけられる、有名なテキストである。疫学とは、医学関係の教科書では、「人間集団における健康障害の頻度と分布を規定する諸要因を研究する医学の一分科」(重松ほか1979)というように定義されている。英語のepidemiologyという語が示すように、もともとは伝染病、いわゆる疫病の発生に当ってその原因を探り、防除策を講じることを目的としたが、現在の対象は必ずしも伝染病に限らない。

 私の疫学との出会いは学生時代に遡る。いわゆる公害・環境問題を科学的に扱う方法論として「疫学」という有効なものがあると先輩から聞き、武谷(1967)の著作を教えられた。武谷はその中で、直接に公害の原因を探ろうとする「実証医学的研究」が、しばしば「原因不明」の結論を導くことを批判し、それへの対抗軸として、Snowを引用しつつ疫学的手法の有効性を主張していた。この時の私はSnowの原著を読むには至らなかったが、武谷の要約でその概略を知ることができ、またその後に触れた環境問題関連の論文、調査報告類を通じて、疫学的手法の何たるかはおよそつかむことができた。私が大学院以降に行った環境問題関連の調査は、それらを通じて私なりに理解した疫学の理念に基づいている。

 しかし、疫学の示唆は環境公害問題のみに止まらない。たとえば生態学で、生物相や個体群の長期変動のようなテーマを扱う場合、必然的に過去の調査記録を扱う機会が多くなる。しかし過去のデータはしばしば不備であり、断片的で方法も一定しないことが多い。またそれ自体正確であっても、こちらの目的に対しては不十分ということもある。こうしたテーマに対して、「もともと限界があるのだからいいかげんでも仕方がない」というあきらめに近い態度を目にすることもあるが、それでは不満である。われわれの見馴れた短期集中、実証型研究とは別の精度感覚によって、なおかつ科学的に取り組む道はないものであろうか。本家の衛生医学の分野では疫学の方法論は細分化し、医療現象に特化しているように見えるが、学問黎明期の業績はしばしば柔軟性に富み、それだけ分野外にも示唆を与えてくれる可能性がある。Snowの業績を検討することにより、解決策と言わぬまでも何らかのヒントが得られないかと期待される。

 'Snow on cholera'は、コレラをめぐるSnowの論文の他、W. H. FrostによるSnowの研究の歴史的評価、生前のSnowと親交のあったB. W. Richardsonによる伝記的記述の3部から成る。本書評は第一の文献の紹介を中心とするが、研究の背景を明らかにするために他の二文献も随時に引用し、また時代背景や伝染病としてのコレラの一般的な性質等については多く見市(1994)を参考とした。

背景

 コレラはもともとインド、ベンガル地帯の風土病であったとされる。それがイギリスによるインド支配や交通機関の発達などで人間の移動が活発になるにつれ、インド圏を飛び出して世界的な流行を繰り返すようになった。コレラの症状は悲惨である。感染すると激しい下痢が起こり、便はほとんど水分から成る「米のとぎ汁状」で、一日十〜数十リットルに及ぶ。これはいわば、生きながらに水分を絞り取られるに等しい。患者の苦痛は著しく、皮膚はしわが寄り、頬は落ちくぼんで「コレラ顔貌」と呼ばれるすさまじい形相となる。血液は水分を失ってノリ状となり、脈拍が停止して死に至る。症状の進行は急激で、多くは発病後数日内に死亡し、致死率は30〜70%の高率とされた。こうした症状は現在では、腸管に増殖したコレラ菌が腸粘膜の水分透過性を増して、細胞、血液内の水分を排出させることによる、と説明されているが、当時はまだコレラ菌の存在は知られていない。

 コレラは1800年代初めから末にかけて、5回の世界的流行を引き起こした。このうち第2次の流行は第1次にまさる広範なもので、1826年にベンガルを発したコレラは約3年かけて中央アジアに至り、ロシア、東ヨーロッパを経由して1831年5月、バルト海沿岸に達した。当時この地方と盛んな交易を行っていたイギリスでは、海岸部の商業都市を中心に警戒を強めたが、コレラの侵入を防ぐことはできなかった。1831年10月、イングランド北東部の海港都市サンダーランドに最初のコレラ患者が発生、国内は大混乱に陥った。これを契機に、以後数次にわたりドーバーを越えるコレラと、イギリスの医師、医療行政担当者らとの格闘が始まる。この間のコレラ流行によるイギリス全土の死者は14万人に達した。そしてこの時の医師たちの中に、John Snowがいた。

 John Snow (1813-1858) は、イングランド北部の農家の長男に生まれ、幼いころから勤勉な性格で知られた。14才で家を出て以後、医療機関の見習いなどとして各地に移り住み、1831年、最初のコレラのイギリス侵入の時は、サンダーランドに近いニューカッスルでコレラ患者の看護にあたった。その後24才で医師として独立し、麻酔分野を中心に経験を積んだ。31才で医学博士となる。Snowの本格的なコレラへの取り組みは、コレラのイギリスへの2回目の侵入(1848-49)の時のことである。この時、ロンドンの病院医師であったSnowは、ロンドン・コレラの流行をめぐって聞き取りを中心とする徹底した調査を行い、重要な事実をつかんだ。その結果をまとめたのが、次節で紹介するSnow (1849) 'On the mode of communication of cholera'の論文ということになる。

'On the mode of communication of Cholera'(「コレラの伝播様式について」)

 この報告が書かれたのは1849年で、まだ現在の科学論文の体裁‐Introduction, Methods, Results, Discussionの四段構成から成る簡潔な記述‐が確立する以前のことである。そのためこれを読んだ第一印象として、私は記述が冗長、散漫な印象をぬぐえなかった。しかし主張に関連する事実は十分に触れられており、多少骨は折れるが、ていねいに読みさえすれば著者の論旨をたどることは難しくない。また、簡潔な構成に徹するあまり抜け落ちるかもしれない傍証的知見を豊富に含めることができる点、かえってこうしたスタイルの利点とも考えられる。

 Snowがこの論文の中で中心的に述べているのは、コレラの伝染経路をめぐる仮説とその根拠である。論文はまずコレラの歴史に始まり、発症事例、病態などを記述した後、感染経路について、人から人への直接感染と、それ以外の、より大規模な感染に分けて考察している。当時コレラ患者は貧困層や鉱山労働者に多発することが知られていた。前者に多い理由として、Snowは住宅事情を想定した。当時のイギリスの貧困層は、1家族が1部屋に住むこともめずらしくなく、患者が発生しても、家族は同じ部屋で寝食を共にしなければならなかった。その結果、患者の排泄物が何らかの形で食事にまぎれ込むなどして経口感染し、たちまち家族全員がコレラにかかる。一方鉱山労働者は、いったん鉱に入ると約10時間働き続ける習慣になっていた。この間、食事も排泄も鉱内ですませ、食事は素手で食べるなど、衛生状態が極めて悪い。ここでも労働者は常に経口感染の危険にさらされている。

 しかし、そのような人から人への直接感染では説明できない事例が多く存在した。たとえば、患者が近くにいないのにコレラを発病したり、地域全体にいきなり大規模にコレラ患者が発生する。これに対して、Snowは豊富な具体例に当たりながら,要因を「飲料水」に絞って行く。たとえば、同じ家に患者がいなくても、患者の家から流れ出る下水が飲料水に混入する危険のあるところに、新たな患者が発生している。コレラの汚染地域を訪れて水を飲み、感染する例がある一方、現地にいても水を飲まずに無事で済む例など。この点に関して最も組織的、集中的な調査が、ロンドンのSoho地区でコレラが大規模に発生した事例について行われた。

 1854年8月下旬から9月にかけて、ロンドン中心部のBroad Street周辺で600人を超えるコレラ患者が発生した。そのほとんどが8月上旬の約1週間に集中し、一日最高で140人が発病をみる、短期爆発型の発生だった。この時現地に調査に入ったSnowは、Broad Streetの給水ポンプ(住民はこの井戸に水を汲みに行く)の周辺に患者が多発していることに気づいた。図1は、この時の患者の発生状況について、Snowの原図を改変して示したものである。

図1.Broad Street 周辺各街区におけるコレラ患者の発生状況(1854年8-9月)。黒丸は小さい方から、1-5, 5-10, 10-50, 50-100, 100-150人。図の破線内が調査区域で、その範囲で黒丸がないのは患者が発生しなかったことを示す。星印は給水ポンプの位置(汚染されたと見られるものを○で囲ってある)。 図1

Broad Streetのポンプ周辺に、集中的に患者が発生したことがわかる.むろんこれのみでは井戸の水が原因と決めるのに十分ではないことをSnowは承知しており、さらに、患者がこの水を飲んだかどうかを確かめようとした。しかし調査をはじめた時、すでにコレラへの恐怖から住民の多くが逃亡しており、また患者の死亡もあって十分な情報が得られなかった。ところで、Snowは事実のみを平然と書いているが、このことが、調査者自身の身の危険を意味することは明らかである。後に述べるように、当時コレラの感染経路については空気感染説が有力であり、住民が避難する中,コレラの多発地帯に踏み止まって調査を続けることは、並大抵の覚悟ではできない。一方、時間的、空間的発生状況に加えていくつかの傍証が得られた。Broad Streetの井戸の給水範囲外で発症した何例かにおいて、患者がこの付近を訪れてその水を飲んだことがわかり、また、給水域内で感染しなかった人々の多くが、この期間に井戸の水を飲んでいなかったことが確かめられたのである。たとえば、あるビール工場では、職員が水がわりにビールを飲むことが許されており、ここでの発症は、少数の軽症例を除いては認められなかった。こうしたことからSnowはこの地区の行政を担当する教区委員会にBroad Streetのポンプの使用停止を提言し、それを受けて井戸は閉鎖された。この地区のコレラ禍は、以後収束に向かう。この井戸の汚染について、Snowは、患者が発生した家からの下水が井戸に滲出したのが原因ではないかと推測している。

 給水とコレラをめぐるSnowのもう一つの重要な分析は、テムズ川から取水する水道会社とコレラの関係についてのものである。当時のロンドンの水道は、市中を流れるテムズ川を主要な水源の一つとしたが、取水口付近のテムズ川は、しばしば今日の常識からは考えられないほどに汚染されていた。当時の記録...「彼らはテムズ川の水で水桶と胃を満たす。ところがその水は、十万の便所が、毎日そのぞっとするような不潔な中身を放出している地点で取水されたのである」(見市1994)。ロンドンにはテムズ川から取水している水道会社がいくつかあったが、Snowは各社の給水を受ける地区のコレラ死亡者数を調べて、一つの著しい傾向を見出した。下水の影響を受ける地点から取水していたSouthwark & Vauxhall社の給水範囲からコレラが多発したのに対し、流入下水の影響を受けない位置から取水するLambeth社の給水範囲では、発症が極めて少なかったのである。Snowはこれを1万家屋当りのコレラ死亡者数で比較し、明確な結果を得た(表1)。

地区担当給水社
家屋数
コレラによる死者
1万家屋当り死者

Southwark & Vauxhall
40046
1263
315
Lambeth
26107
98
37

表1.異なる水道会社の給水範囲における、コレラ死亡者数の比較。1854年8月。

 この問題について、Snowは後に人口データを加えてさらに詳しい分析を行った。そちらの方は大区域の中に小区域を設け、それぞれの小区域内で両水道会社の給水範囲のコレラ死者を,今度は人口1万人当りで比較した詳細なもので、今日の統計の言葉で言えば、対応のある入れ子型の構成になっている。平均値の差を論じるだけでなく、死者数が、それぞれの水道会社について、各小区域に渡って一様であること(つまり分散varianceの評価)も論及されている。Fisherらの検定理論が確立するのは1900年代に入ってからだから、当時はまだそうした分析は登場しないが、基本的な考え方は同じである。

 このような水道会社の分析をもとに、Snowは給水原因説の立場から、当時知られていて原因のよくわからなかった現象についても説明を試みた。たとえば、ロンドンの地盤の高いところは低いところよりもコレラの発症が少なく、これは漠然と湿気と乾燥に結びつけて考えられたりしたが、一方で、雨が少ないとかえってコレラが多発するということもある。Snowは、低い地域はテムズ川沿いであって水源を川に頼り、汚染された水が供給されることがコレラ多発の原因であるとし、また、雨が少ないとコレラ患者が多く発生するのは、降雨減少によってテムズ川の下水の濃度が高まり、水道水の汚染が増すことによると考えた。

 Broad Streetのコレラ禍や、テムズ川と水道会社などをめぐり、給水原因説について大部の論証を行う一方、Snowは、異説についての検討も行っている。当時、コレラの伝染については空気感染説が有力だった。これに対してSnowは、患者の近くにいても感染するとは限らない一方で、近くに全く患者がいなくても大規模に発症する例があるとして反論している。またBroad Streetのコレラについては、200年前にペストが流行した時の死者を埋葬した墓地を、下水道工事のために掘り返したことで毒素が流出し、下水を通じて感染が拡大したという風評が流れた。しかし実際のコレラの発症域と、この下水道の流域はくいちがっているとしてこの説を退けている。

 最後にSnowは、コレラの伝染を防止するための十数項目の提言を行っている。それは患者の看護の仕方に始まり、住居や労働条件の改善、またSnowの本領である排水と給水の改善、港湾都市における防疫など、広範にわたる。コッホによってコレラ菌が発見されるのは1883年だが、それをさかのぼること30年の当時、Snowが既にコレラ感染メカニズムの核心をつかみ、今日の目から見ても的確な予防策を提言していることは注目に値する。Snowの業績が、疫学の原点として今なお高く評価されているゆえんである。

Snowその後

 豊富なデータと明快な結論 - そしてその結論の正しさ - にもかかわらず、当時のイギリス医学界の、Snowの業績に対する評価は極めて冷淡なものだった。1855年、当時のイギリスのトップクラスの医師、科学者を集めた医事評議会は、Broad Street周辺のコレラ発生の原因をめぐり、ペスト墓地説と並べてSnowの井戸説を否定している。...「二つの説があった。1つは昔の埋葬場所を掘り起こしたことがコレラ発生の第一原因であるというもの。...もう1つはBroad Streetの井戸がこの災害の原因であるというもの。しかしいずれもコレラの発生を十分に説明していないと当委員会は考える。」(見市1994)テムズ川取水の水道会社の問題についても、Snowの主張は評価されず、ただ水道水の汚染はコレラの危険性を増す促進要因とのみ捉えられた。Snowの後を追って行われた保健局の調査でも、Snowの方法を踏襲して調査をしながら、その報告を全く引用していない。またSnowは'On the mode of...'を、防疫に関する懸賞論文に応募して投稿したが選にもれ、後で出された講評の対象にもならなかったという。結局、水道会社の取水源はほどなく改善されたが、それは「下水の入る水など飲みたくない」という一般的な常識と、その改善がコレラ流行以前からの規定路線だったことによるもので、Snowの報告の影響ということではなかったらしい。Snow自身,れっきとした医学博士であり(その権威は現在をはるかに上回ったであろう)、専門の麻酔医療の分野では、当時のビクトリア女王の出産に立ち会うほど高名だった。1854年には41才でロンドン医学会の会長に就任している。つまりSnow自身、十分に権威ある「一流医学者」だったと言えるが、にもかかわらずのこの低い評価は何を意味するのか。専門が麻酔で伝染病は専門外であったこと、また当時疫学という分野が確立しておらず、手法があまりにも斬新だったことによるものだろうか。その後1853年、第3次のコレラがイギリスを襲い、この時もSnowは水道会社関連の補足調査を行い、先に触れた詳細なデータを1856年に報告している。しかしその2年後、45才でまだ働き盛りのうちに世を去った。コレラ疫学調査の時に示された無謀とも言えるSnowの勇敢さは、専門の麻酔医療の分野でも貫徹され、様々な麻酔薬を自らに試して、ときに危険を伴う‘人体実験’を行うことも珍しくなかったらしい。そのことが命を縮めたと、同僚医師らの間で噂されたという。コレラ防疫についてのSnowの業績の先見性、重要性が広範に認知されるのは、その死後30年以上たってからのことである。


 'On the mode of communication of cholera'の報文は、今日の評価基準から言えば、様々に不十分さの目立つことは確かである。核心となるBroad Streetのコレラ調査にしても、患者が実際にポンプ井戸の水を飲んだか否かの検証は十分と言えないし、水道会社の比較のデータも、実際に一方の給水にコレラ毒が含まれていたかどうかの詰めがない。こうした批判は、当時もあったのかもしれない。「医事評議会の一流学者達」が、どういう根拠でSnowの主張を退けたのか、今回は原典に当たって検討する余裕はなかったが、1800年代半ばといえば、既にニュートン力学は確立し、ファラデーやマクスウェルが活躍していた頃である。当時の最先端の自然科学の方法論に比べれば、Snowの手法が‘原始的’で信頼するに足らずと見えたとしても不思議はない。傍証を積み上げる式の論証というのは、論旨に都合のよいところのみを取り上げているのではないかという疑念を生みやすいことも確かである。しかしそれは、コレラ発生直後の現地の状況や、時代背景(コレラ菌の未発見)からして、どうしようもないことであった。問題は、そのような制約を踏まえてどうするか、ということである。

 Snowに始まる疫学の手法の本質とは、「比較」にあるのだと思われる。ある井戸の周囲とそれ以外の比較、ある水道会社と別の水道会社との比較、それらの間で患者の発生率に差があれば、取り上げた要因の中に原因が含まれる確率が増すことは,常識的に見ても当然であり,その意味において科学的である。完璧ではないとしても、それを示す以前よりも要因が絞られていることは間違いない。そして状況によっては、それによってポンプの停止など,最終的な判断を下さねばならない。

 今日、わが海岸生態学の分野においても、高度に精巧な方法論のみに意味があり、精度の低い研究は無価値で、やる意味がないかのごとき主張が力を持ちつつある。しかし彼らは本気でそのように信じているのだろうかと、私は時に疑問に思うのである。もし自分の主張に自信があるなら、彼らはBroad Streetのポンプの水を飲んでもよいはずなのだが、どうするのだろうか。私は恐ろしくてとても飲めない。Snowの主張に根拠があり、信頼できると認めるからである。そもそも、「厳密でなければ信用しない」などとふんぞり返っていられるのは、予想した結論に対して場所や種を自由に選ぶことができ、しかも何度でもやり直しのきく、理想的な条件下に閉じこもっているからにすぎない。しかし現実の社会現象や自然は、そのようななまやさしい状況設定を許さない。十数万人の犠牲者を出した19世紀イギリス・コレラの惨禍の中で、自らの身を危険にさらしながら - 医学者が切り開いた疫学の方法論の骨太さと有効性に、我々は学ぶべきである。

 数年前、20年来の懸案であった‘Snow on cholera'に取り組み、読み終えた時、私はある種さわやかな気持に包まれるのを感じた。それは一言で言えば、そうか、それでよかったのだな、という感慨である。'Snow on cholera'は、柔軟な姿勢によって幅広いテーマに挑む、希望と指針を与えてくれる本である。良い意味でのBritish traditionの精髄と、まずは賛辞を呈しておきたい。

参考文献

Frost, W. H. 1936. Introduction. in Snow on cholera. Hafner Publishing Company, 1965.
橋本博・立川昭二 1984. コレラ. in平凡社大百科事典 平凡社.
見市雅俊 1994. コレラの世界史. 晶文社.
Richardson, M. W. 1887. John Snow MD, a representative of medical science and art of the Victorian Era. in Snow on cholera. Hafner Publishing Company, 1965.
重松逸造 編 1979. 新しい疫学の方法論. ソフトサイエンス社.
Snow, J. 1854. On the mode of communication of cholera. in Snow on cholera. Hafner Publishing Company, 1965.
武田徳晴 1972. コレラ. in世界大百科事典. 平凡社.
武谷三男 編 1967 安全性の考え方. 岩波新書.

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